ある日ツイッターから通知があった。私がアカウント開設から八年経つという、特に有り難くもないお知らせである。
昔から褒められることが少なく、そのためか自己顕示欲と承認欲求が強かったので、スマートフォンを買ってもらった時は、いの一番にツイッターへ登録した。
最初は単純に自分の呟きを他人が見る、「イイね(あの頃は「お気に入り」だったか)」を押す、そのシステムを気に入っていた。
そしてたかだか平凡な一般人の呟きなど誰も見ないと知ってからは、好きな作品の二次創作をアップし始めた。
ツイッターにのめり込んだ私。何度も呟いて作品をアップした
元来ののめり込みやすい性質もあって、日に何度も呟き、二次創作作品をアップした。それを繰り返すと、日常アカウントと二次創作アカウントは分けた方がやりやすいと気付く。新しいメールアドレスなど作ろうと思えば案外簡単に作ることができた。
新しいアカウントを二次創作専用にすると、日常アカウントではゼロに近かったフォロワー数が十数人ではあるが増えた。フォローはされなくとも「お気に入り」を押される回数も格段に増えた。
取るに足らない数字ではある。たが二次創作とはいえ、自分の生み出したものが誰かに好きになってもらえる、その嬉しさが創作意欲に拍車をかけた。
たまにメッセージを貰えばしばらく眺めるほどに喜び、また書く。ツイッターを通したフォロワー数人との交流も楽しかった。
そして今、そのアカウントは存在しない。
昨今のSNSにおける「映え」。どれだけ「イイね」を貰えるかを競う若者。その様に苦言を呈する人たち。褒めてもらいたい、認めてもらいたい、見てもらいたい……その気持ちは痛いほどよく分かる。私はずっと前からそうだった。
思いつきでアカウントを消した。気持ちが楽になったことに驚いた
私は自分よりも「お気に入り」が多い作品があれば嫉妬した。評価されている作品が必ずしも良作とは思えず、自分の方が上手いと驕っては勝手に苛ついた。
最初の頃はそれでも作品をアップし続けた。「お気に入り」を押してくれる人が一定数いたからだ。
しかし、その数もなかなか一定数を出ない。メインで二次創作している作品のファンが増えるにつれて、創作界隈も賑やかになった。自分よりも余程上手い人が作品をアップするようになり、その頃には「下手の横好き」という言葉が頭を回るようになっていた。創作意欲などもうなかった。
アカウントを消したのは本当に思いつきだ。何がきっかけだったのか、後押しになったのか。今になっても分からない。もういいや、と消したのだ。
消す際に予告はしなかった。躊躇はなかった。フォロワーも、私のアカウントが消えたことに気付きすらしなかっただろう。その頃には二次創作するほどに大好きだった作品も見なくなっていた。
なのでアカウントを消した後、気持ちがかなり楽になったことには驚いた。もう少し何かあると思っていたので、杞憂も良いところだった。
誰かがいなくても私は私。それはツイッター上でも変わらない
日常アカウントは更新こそしていなかったものの残してはいたので、とりとめないただの呟きを書くようになった。
フォロワーなどいないも同然の独り言は楽しい。誰にも見られていない、自分一人だけで好き勝手して、それに反応が返らないことを私はずっと寂しいと思っていた。肯定的な意見が返ってきてこそ、意味があると考えていた。
しかし、必ずしもそういうわけではない。誰かがいなくても、私は私であるし、特に問題なく日常生活を送っている。たった一人でも楽しくなれるし充実もしている。なぜそれをツイッター上では忘れて、自分で自分の首を絞めていたのか。
誰でも繋がれる場所で誰とも繋がれないのが寂しいなら、SNS自体向いていない。私は今、ド派手に盛られたパフェをすぐさま撮影する友だちの前で、豪快にスプーンを突き刺す生活を送っている。
そして美しく撮られたパフェの画像に、そっと「イイね」を押すのだ。