記憶に残るような何かに遭遇した時、「写真を撮っておけば良かった」なんて時折後悔することがある。記憶にあれば十分な筈なのに、私たちはどうも、携帯電話やSNSといった便利な外部メモリに頼りがちになる。
そのお店のお料理の写真、今までに一体何回撮った?
そこから見える景色の写真、それで通算何枚目?
お決まりの写真はそんな疑問を抱かせる暇もなく、順次SNSに投稿され続ける。

SNSは名刺代わり。その言葉は、社会に出る前の私にも腑に落ちた

「SNSは名刺代わり。自身がどんな活動をしているどんな人間なのか、手っ取り早く知ってもらうためにも発信し続けるべき」
学生の終わり、アーティストとして社会へ出るほんの少し前に、とある案件でご一緒した先輩がそんなことを口にした。
二回り近く年上のその先輩を、強い憧れや尊敬の眼差しで見つめたことはなかったけれど、それでもその一言は、当時まだ社会をよく知らなかった私にも妙に腑に落ちた。
フリーランスのアーティストにとって、セルフブランディングは避けて通れない課題の一つだ。

その一言が明確なきっかけという訳ではないけれど、それまで他愛ない出来事を呟いたり、友人・知人と繋がるために運用していた各種SNSは、気が付けば仕事と日常を絡めた投稿が主の、セルフブランディングのツールと化していた。
現場の様子や終えてからの感想を、ありきたりな言葉とハッシュタグでまとめる。更新し続けていたらあっという間にフォロワーは増え、SNSをきっかけに仕事をもらう機会も多くなった。

愚痴や弱音を吐きたくても、マイナスイメージになることはできない

特に困ることもなく、SNSを有効に活用できていると思っていた。けれど、こんな使い方をしていると、「ここまで築き上げてきた自身のイメージを崩せない」という呪縛に、いよいよ囚われるようになる。

一身上の都合で精神的に参っていたある時期、私は日に何度も、愚痴や弱音を吐き出したいと思う瞬間に襲われていた。
かつては、そんなもやもやした気持ちを宙へ放るようにSNSで呟いていたけれど、顔も名前も出して活動している今、そんなマイナスイメージに直結するようなことは絶対にできない。

せめて、ぎりぎりいつも通りこなしているつもりの仕事の様子を、いつも通り投稿しようとアプリを開く。けれど、心に余裕のない自分に「楽しかった・嬉しい・幸せ」といった言葉を操ることができる筈もなく、結局ろくに文章を打てないまま、投稿の下書きだけを増やすこととなった。
SNSを更新できない日が、私にしては珍しく何日も続いた。

辛くても上手くいっているように見せるという呪縛が、私を追い込む

「こんなの、私じゃない」「こんなどん底の毎日じゃだめなのに」という焦りがあった。
これまでの投稿によって出来上がった自分と、殺伐としたリアルを生きる自分に差が生まれ、SNSを更新しないことやマイナスイメージを持たれることで、世間から切り離されるのではという変な不安に駆られた。タイムラインに溢れる、友人・知人の充実した日常は、そんな私の不安に拍車をかけた。
「辛くても、それでも、全てを上手くいっているように見せないといけない」
そんな呪縛が、更に私を追い込んでいった。

結局私は、日々の出来事や目にした光景よりも、それらに囲まれた「リアルが充実している自分」を好きなんじゃないか、なんて、少し落ち着いた今になって考える。
上手くいっているように思えたセルフブランディングは、いつしか、上手くいっているように見せなくてはというプレッシャーに変わり、そんなプレッシャーが、日々同じような投稿をさせる要因になっていたようにも感じる。

自身のSNSとの複雑な距離感は、絶妙なバランスで成立しているのかも

SNSとの関わり方は人それぞれだ。誰かに迷惑がかからなければ基本的には自由だし、鍵をかけたり、アカウントを使い分ける方法もある。実際、そうして上手くやっている人は大勢いる。けれど、それができない不器用な自分だからこそ、SNSから飛び出し、こうしてペンネームで思いの丈を綴るに至っていたりするから面白い。
不思議なもので、呪縛に悩まされることはありつつも、少なくとも自身のSNSとの複雑な距離感は、絶妙なバランスで成立しているのかも……なんて、この文章を書きながらしみじみ感じている。
それぞれに合った場、それぞれに合った使い方で、SNSとは今後も上手に関わっていきたい。