サンタさんを待っていた夜を思い出す。あれは確か8歳くらいだった。
そろそろその正体に気がつく人もいたけれど、私は存在を疑うことをしなかった。しかし、サンタさんがどんな人なのかは知りたいと思った。
妹と2人で朝まで起きていようと相談をして、随分長いことおしゃべりをしていたのに毛布の温さと部屋の暗さに負けて、午後11時頃には眠ってしまった。

年に1度のチャンスを逃してサンタに会えず、私だけプレゼントがない

翌朝、1年に1度のチャンスを逃してしまったことに気づき、酷く動揺した。また、来年。そんなふうに潔く切り替えられる聞き分けの良い子ではなかったのだ。
もうひとつ衝撃的なことがあった。プレゼントがどこにもなかったのである。2歳下の妹にはちゃんと届いたのにも関わらず。
「プレゼントがなかった」と、私は母に言った。母は何食わぬ顔で「あんたが悪い子だったからだよ」とだけ返した。
世界中の子どもたちにプレゼントを配ってまわるほどの寛容な人物が、私の粗相を許さなかったのだろうか。そんな難しい言葉はさすがに使わなかったが、彼を怒らせるほどのことをしでかした覚えはなく、ただただ悲しい気持ちになったことを思い出す。

2日遅れで届いたサンタさんからのプレゼントは、黒猫のマークが入った宅急便のおじさんから受け取った。
注文がクリスマスに間に合わなかったのなら、配達が遅れてしまったのなら、いっその事サンタさんの正体をバラしてくれても良かったのに。母がついた小さな嘘が今でも忘れられない。
プレゼントが貰えるだけマシだと思う。夢を壊さずに数年間はサンタさんでいてくれた両親にも感謝をしなくてはならない。ちなみに、私の従兄弟はサンタさんなんて来たことがないと言っていた。

どうして「サンタさん」という匿名の名を借りる必要があるのか

私はふと考えた。そういった幸せを当たり前のように受け取って生きていた子どもも、いつかはその正体に気が付く。まあそうだよねと諦めに似た感情を持って受け入れる。
逆にサンタさんの存在を信じたままの大人がいたら不審に思うだろうし、そんな姿はいっそ哀れだ。
純粋にサンタさんを信じていた分だけ、傷つくことになるのではないだろうか。傷、とまではいかなくてもちょっぴり切ない気持ちにきっとなる。
私は、なった。プレゼントなら手渡しでいいのに、どうして「サンタさん」という匿名の名を借りる必要があるのか。最初からそんなものがなければ、それはそれでいい。それなりに楽しくクリスマスを過ごしたはずなのだから。
そうは言ってもやはり、サンタさんの文化はいいものだと思う。私が子を持つ親になったらきっと同じことをする。サンタさんになる。子どもに向かって「悪い子には来ない」とは絶対に言わないが。
子どもの純粋な願いと、かつて子どもだった大人たちの優しさが入り混じるクリスマス。
1年に1度の特別な日。赤い服を着たサンタのおじいさんがプレゼントを持ってきてくれる日。はしゃぐ子どもたちは可愛い。それを叶えてあげたい気持ちはよく理解できる。
何はともあれ、子どもも大人も素敵な日を過ごして欲しい。