参考書や過去問よりも時間とお小遣いを費やして、小説を読んだ

大学受験を半年後に控えた18歳の夏。苦手な勉強から少しでも遠ざかりたくて、勉強について考えることからも逃げていた私が見つけた心のユートピア。読書。
聞いたことのあるタイトルの作品、買うと栞がもらえる作品、表紙がおしゃれな作品など、気になるものはどんどん買ってどんどん読んだ。参考書や過去問よりも時間とお小遣いを費やして読んだ小説たち。

その中で、後に実家を出て一人暮らしを始める決心の材料ともなった作品がある。「神様のボート」(江國香織/新潮社)だ。

主人公は母と娘。二人で引っ越しを繰り返していくつもの街を旅する。引っ越しをする理由は、消えた夫を待つためと、夫のいない場所になじまないため。信念を軸に引っ越しを繰り返す母と、成長とともにひとつの街にとどまりたい気持ちが芽生える娘。二人の視点で交互に語られる物語。

海辺を歩く場面に、「海辺を散歩できる街に住んでみたい!」と思った

私は生まれてからずっと引っ越したことがなかった。だからおそらく、物心ついた時から故郷になじんでいたし、そもそも、なじむとかなじまないとかを気にする必要もなかった。
本を読みながら思った。「なじむってどういうことだろう」「引っ越しってどんなものだろう」。そしてこうも思った。
「引っ越ししてみたい!」

奈良県出身の私は、海というものに並々ならぬ憧れがあった。この本は、私に引っ越しへの好奇心を持たせただけでなく、海への憧れも加速させた。

海辺を歩く場面がある。母と娘がぽつぽつ話しながら歩く。行ったことのない街の知らないはずの海が頭に浮かぶ。きっと少し曇った、薄い色の空と風の強い海。真っ白ではなくていろんなものが落ちている、遠くから見るとくすんだ色の砂浜だ。そしてこう思った。
「海辺を散歩できる街に住んでみたい!」

海辺の街での一人暮らし。それが就職と同じくらい重要で大きな目標に

初めてこの本を読んでから4年経った22歳の夏。いくつもの就職試験を受けた。
私が試験を受ける基準は二つ。自分の進みたい道の業種かどうかと、海がある都道府県かどうか。もちろん最終目標は就職して社会人になることなのだが、海辺の街に引っ越して一人暮らしをすることが就職と同じくらい重要で大きな目標になっていた。
いくつか内定した就職先のうち、1番海に近いところを選んだ。友達や家族と離れる寂しさもあったが、「あの本みたいに引っ越ししたい!」という気持ちが心の芯の部分を燃やしてエネルギーになっていた。

生まれて初めての引っ越しは、不安と期待とが入り混じった気持ちだった。それと達成感。4年前に抱いた引っ越しへの好奇心が昇華され、満たされて行く。100点満点とは言えないアパートだけど、小さい本棚にお気に入りの本をびっしり並べた。私の物語も動き出した。

新しい生活。嫌なことがあっても、あの本みたいに海を歩いた

新卒1年目は正直つらかった。慣れない街での暮らし、初めての仕事、上司からのチクリと心が痛む言葉、故郷とは違う方言。だけど海があった。嫌なことがあってもあの本みたいに海を歩いた。主人公みたいにスカートをバサバサさせて歩いた。枝とか、綺麗なガラスとかを探しながら。

23歳の春。新卒で入った職場を1年で辞めて転職した。人生で2回目の引っ越し。人生で3つ目の街。1つ目の職場を長く続けられなかったことが少し悔しい。でも引っ越せばまた新しいスタートがやってくる。期待、希望、救いのための旅。今度も海に行ける街だ。そういえば、前の街にはなじんでいたのだろうか。今度の街にはなじむのか、なじまないのか。 

小さい本棚に、またびっしりと本を並べる。私の物語は動いている。このアパートは明け方、船の汽笛が聴こえてくる。

生まれた街を飛び出す勇気と、旅するエネルギーをくれた本。勉強から逃げるために読んだ本が、今の私をここまで導いた。

久しぶりに読み返そうかな。次はいつ引っ越そうかな、なんて考えてみる。