人間の死亡率は100%である。
そう、綾小路きみまろが言っていた。
遅かれ早かれ人間は必ず死ぬ。悪事を生業にしている人間であろうと、ノーベル平和賞をとった人間であろうと、死ぬ時は必ず来る。
そして死ぬ時というのは誰にもわからない。事故にあうかもしれない、癌が体を蝕んでいるかもしれない、寒暖差で急に心臓が止まってしまうかもしれない。神のみぞ知る世界だ。
出版業界では、作家の寿命は3年といわれている。寿命を迎える私
けれど私には私の寿命がわかる。
私、忍足みかんの寿命はおそらく2022年。
そこがタイムリミット。延命か死亡の勝負所である。
それは肉体の話ではない。
私……そう、「本名」体の私はなんの病魔にも侵されてなく、多少メンタルは豆腐のように柔らかいが健康である。忍足みかんという「筆名」での私の事である。
作家の寿命は3年と出版業界ではいわれている。
私は2019年に作家としてデビューしたので、2022年でちょうど3年。
寿命を迎えるのである。
人は死ぬ。けれども死なない人間もいる。それは肉体がという意味ではなく、存在がという意味で。
例えば作家。私は自身も執筆の際には、この現代においても400字詰め原稿用紙にボールペンで桝を言葉で埋める文豪スタイルをとっているほど、文豪の肉筆原稿を文学館で見るのが好きだ。当然ながら芥川も太宰も漱石もとっくに亡くなっているけれど書いた文字、そして綴った作品がこうして時を経て、人間の寿命よりも遥かに長い年月を生きていることに浪漫を感じる。
私は2022年に寿命を迎えるけれど、そうやすやすとやられるわけにはいかないのだ。「はい、そうですか」と首を捧げられる程、私という作家の命は安くない。やられる前に一太刀まみえなければ。
無名の新人だった私。入り込む隙など到底なかったけれど
2019年デビューしたばかりの時から、私はデビューしたことの喜びと同じくらい「作家」として死なないことで心の中はいっぱいだった。
1か月に文庫本ハードカバー、数えきれない本が産声をあげていく。そして書店の一等地に据えられるのはいつだってドラマや映画化した作品、文学賞を受賞している作品で、無名の新人である私には入り込む隙など到底なかった。
でも、だからといってただ死を待つなんて癪である。誰も私が目に入らないのならば入らせればいい。
自分の著作についての宣伝と手紙を新聞社やテレビ局、ラジオ、関心のありそうな芸能人に郵送した。もちろん郵送代は自腹である。
切手代は1通140円程だけれど10社に送れば1400円になり、20社に送れば2400円になった。この日本にあるテレビ局やラジオ局は10や20ぽっちではなく、財布からはするする金が消えた。
値は張ったが、高いとは思わなかった。ここで払わず死の間際に後悔するのならば惜しんではいけない、それに押し迫ってくる死と戦うための剣を打っていると思えば安いものではないかと言い聞かせた。RPGゲームはやったことがないけれど、きっと強い武器というのは高いというイメージがあった。
その結果、新聞社さんから取材を申し込まれて幾つかの新聞に載せてもらった。背後からのそのそとやってくる死に対して振り向いてベエッと舌を出している気分だった。けれどもまだ足りない。
2年間のうちに磨き上げてきた刃で、死という敵と戦わねばならない
2021年は生き残りに足掻いた1年だった。昨年蒔いた種は芽が少しずつ息吹き、テレビにも出させて貰った。
正直テレビに出ることは怖いと思った。「筆名」の私と「本名」の私は同じだけれど違う人……同じ体に2人の人間が生きている感覚なのに、顔を世間に出すとうまく取れていた均衡が崩れてしまう気がした。
それに「本名」の私をよく思っていない人もいるのはよくわかっているから、露出すればするほど「調子に乗ってる」と後ろ指をさされるのは目に見えていた。でも、多くの人が見る番組に出れば「筆名」が売れて刃はより強いものに変わると信じて、飛び込んだ。
そうして迎える2022年。私は2年間のうちに磨き上げてきた刃で死という敵と戦わねばならない。勝てるかどうかはわからない。けれど勝てなければ「筆名」の私は死ぬ、確実に。死にたくない。「筆名」の私が死ねば残るのは姑息で自己肯定感が低くネガティブの塊の「本名」の私だけ。自分のことは大嫌いだったけれど、「筆名」を名乗るようになってほんの少しだけ自分を好きになれた、生きていてもいいと思えた。
だから私は勝たねばならない、生きねばならない。初日の出を迎え、2022年がはじまるとともに戦いの火ぶたは切って落とされる。2022年寿命に抗い、2023年以降も生き続ける……これが忍足みかんの真っ赤に燃える誓いだ。