旅が心に効くタイミングは、旅先にいるその瞬間だけではない。五年後、十年後、思いもよらぬ瞬間に、私の心に効いてくる。

すべての時間と力を注いだ資格試験。何もできないまま終了の声が…

昼間は大学に通いながら夜に専門学校へ行き、自分の全ての時間と精神力を注いで挑んだ資格試験に、私は落ちた。
合格発表の会場で分かったのではない。
それよりもずっと前。
試験会場で、私は打ちのめされてしまった。

朝から具沢山の味噌汁と大好物の焼鮭と炊きたてご飯を用意してくれて、「いつも通りで大丈夫だからね!」と優しい笑顔で送り出してくれた母に感謝しながら、私はさほど緊張せずに試験会場へ向かうバスに乗った。付箋だらけでボロボロの参考書を読み直しながら、「待ち望んでいた今日がやってきた」とにやける余裕さえあった。
それなのに、試験開始の声で問題用紙に手を触れた瞬間、私の頭は真っ白になり、全身から汗が吹き出し、がたがたと震えが止まらなくなった。

何度深呼吸しても鉛筆を握ることができず、膝に手汗を擦り付けているうちに、試験終了の声が耳に届いた。何も出来なかった。
私の人生は、無惨に砕け散った。
試験は朝から晩まであり、一日で四科目の試験を受けなければならなかったが、二つ目が始める前に私は会場から立ち去った。

心がぐちゃぐちゃになった私は、どこか遠くへ行きたいと電車に乗った

何も見えない。
何も感じない。
夜まで試験だと思い、ご馳走を仕込みながら待っている家族がいる家に帰るわけにはいかない。
昨夜激励メッセージをくれた専門学校へ行くわけにもいかない。
どうか今だけは、私が試験を受けているという事実から逃げ出したい。
このままでは心がぐちゃぐちゃに潰れてしまいそうだ。
誰も私を知らない場所へ、どこか遠くへ行かなければ。

ふと気付けば私はJR仙石線に揺られ、「松島海岸駅」のアナウンスで吸い寄せられるように松島の地へ降り立った。

別に日本三景を見ようと思ったわけではない。
名物である生牡蠣も蒲鉾も大好物ではないし、たぶん来たこともないのではないか。
何故ここに来たのだろうと思いながら、遊覧船の案内所の前を通り過ぎようとした時、
「だからパパは、海が好きなんだ」
突然頭の中に柔らかな声が響いた。
「海はいつだってここにある。どんなに辛い時も、どんなに嬉しい時も、海はずっと綺麗で、ずっとここにあり続けている。だからパパは、海が好きなんだ」

思い出した家族旅行と父の言葉。遊覧船のチケットを買い海へ向かう

そうだった。
思い出した。
幼い頃、家族旅行で松島に来たことがあった。父が仕事の付き合いで誰かから旅行券を貰ったからと突然出発することになった、一泊二日の、なんてことはない普通の家族旅行。
あの時、確か帰る直前に父が突然「遊覧船に乗るぞ」と言い出し、疲れがたまっていた母や私はしぶしぶ連れられて海へ出発したのだった。

船から見る松島の海は、太陽に照らされギラギラと力強く輝いていた。その中に浮かぶ幾重もの島々の存在は海の輝きでよりいっそう際立ち、地球と生命の神秘を痛いほど感じさせられる強烈な体験となった。
「海って凄いね!」
もう疲れたから乗りたくないと散々文句を言っていた私が、降船場で誰よりもハイテンションなまま父に飛び付くと、普段は寡黙な父が珍しく笑顔で嬉しそうに海への愛を語ってくれたのだった。

胸がいっぱいになり、鼻がつーんと痛くなってきたが、そのまま遊覧船のチケットを買い、私の足は海へと歩みを進めた。
あの頃は有名な映画に出てくるような、とても大きな船に乗ったような気がしていたけれど、今ひとりで乗るとそれほど大きくない。
平日の朝でもほどほどの混み具合で、座るのは諦めて外の手すりに寄りかかった。
寒い。
甘酒の看板があちこち立っている季節に、船の外で海を見るのは寒過ぎる。
それでも、外にいてよかったと、出発した瞬間に思い直した。

海が綺麗だった。
あの頃と変わらずに、綺麗だった。
その事実は、私の心を柔らかく包み込み、優しく温めてくれた。

どんなことがあっても、変わらずに海は綺麗で、人生は続いていく

試験を受けても受けなくても、合格しても不合格になっても、変わらずに海は綺麗で、変わらずに私の人生は続いていく。
当たり前のことを、海はその輝きで伝えてくれた。
海が伝えてくれることを、父は幼い私に教えてくれていた。

まさか、あれほど昔の一瞬の出来事に、今、救われるとは。
もう二度と家に帰れない、もう人生が終わったと、失意と絶望のまま電車に揺られていた私は、すっかりいつもの調子に戻り夕飯前にきちんと帰宅して、両親に小突かれながらご馳走を平らげた。

旅が心に効くタイミングは、旅先にいるその瞬間だけではない。
あの時の家族旅行も、今日の逃避旅行も、この先何年後かじわじわとあるいは突然に、何度でも私の人生を優しく輝かせてくれるだろう。