いちばんよく乗るJR中央線は、この時期になると多くの駅にイルミネーションが施される。進学で上京した最初の冬は驚いた。
数年経った今は慣れたが、イルミネーションは、控えめな最寄駅のものも含めてどれも私の息を詰まらせる。この苦しさの源は何なのだろうと考えたが、どうやら殺意のようだ。
でもそれは光を囲む人たちに対してではない。かつての私へのものだ。

綺麗なショーを見て涙を流せば、CMの家族のようになれると思った

家族団欒の温かさを押し出した広告が溢れかえるこの時期、両親がまともに会話しない我が家をメディアの中に見つけることは難しくて、でもそれにずっと慣れていた。
しかし14歳の冬は、ちょうどその一年前になぜか両親の仲が良い瞬間があったせいで、家族の温もりに毎日恋焦がれていた時期だった。

そのタイミングで、母がテーマパークへの旅行を提案してきた。感動的な音楽と光に包まれて家族が笑顔で身を寄せ合うクリスマスショーのCMをすでに何度も見ていたので、「これだ」と思った。
綺麗なショーに涙を流す私が両親に仲良くしてほしいと訴えれば、きっと母は父をまた好きになり、父は母にした酷いことをきちんと反省し、CMの家族のようになれると思った。それを目指し日々イメージトレーニングに励んだ。

父の運転でテーマパークに到着し、夜のショーへの期待に胸を膨らませながら日中を過ごした。大きなクリスマスツリーに巻き付けられたまだ透明な電飾が、私の期待に拍車をかけた。
父と二人でアトラクションに乗って笑い合いながら、母がこの人のことを嫌いでも私はちゃんと好きだ、仲良しになりたいと繰り返し思った。思おうとした。

ショーが始まった。その瞬間から終わりの時刻まで、素敵な物語と、キラキラした光と、多幸感溢れる音楽が辺り一帯を包んでいた。
でも泣けなかった。大勢の人がいる中で己に心酔して涙を流すというのは意外と難しいらしい。両親もいつも通り冷めきっていた。閉園までまだ時間があったが、これ以上することもないという父の催促でパークから出た。
出口のゲートをくぐる直前まで、泣けない自分に困惑しながらもなんとか涙を引っ張り出そうと、びっしり光を纏ったあの巨大クリスマスツリーを往生際悪く何度も振り返った。
駐車場からは建設中の新しいアトラクションが闇の中に浮かぶのが見えたので、負け惜しみに写真を撮った。

旅行の前から離婚話は進んでいた。馬鹿馬鹿しくなった

思えば両親に涙を見せて効果があったのは、年齢が一桁だった頃の、大声飛び交う喧嘩の最中だけだった。冷戦状態に効くかなんて考えていなかったし、そもそも泣ける前提の計画というのが無謀すぎた。
諦めて年が明け、次に母が私に提案したのは離婚だった。すればいいのにと思ったことは何度もあったけれど、離婚話が持ち上がったのが旅行が決定した後のことで、切り出したのが父だったという事実は、諦めたはずの私の胸を激しくかき回し散り散りにした。

仲良しの家族になりたいと願った肉親は、どうやら一緒にアトラクションに揺られていたあの時、真逆のことを考えていたらしい。いや詳しいことは知らないけれど、とにかく裏切られたと思った。
馬鹿馬鹿しくなった。なんにも知らずに、いちテーマパークの光と音楽と自分のお涙に全部託した私は、なんて愚かだったんだろう。
ショーには泣けなかったのに、自分の滑稽さと父への憎悪には飽きずに何度も泣いた。

クリスマスは、いつからこんなに温かいイメージなのだろう

父に恨み節を言う気にもなれないまま、両親は離婚した。私は家庭をもつ未来を一切考えなくなった。
記憶を塗り替えようと同じショーを見に行ったこともあるけれど、随分しょぼく見えたうえ、同行してもらった友人とその後ぎくしゃくしたので、むしろ悪い思い出が増えた。
それらも含めて丸ごと、イルミネーションを見ると蘇る。あの日見たツリーが、音楽と、父の帰りたげな「もういいだろ」という催促の言葉を伴って私の頭の中で輝きはじめる。ほかの人は分厚いマフラーを巻いてもらえるのに自分だけ冷水を浴びせられている、そんな気持ちになる。
一方で思い出の水分はなくなったのか、簡単には泣かなくなった。乾いた後に残ったのが哀れな自分への殺意だった。

クリスマスシーズンが、いつからこんなに温かいことになっているのかは知らないが、きっと私が生まれる前から多かれ少なかれこうだったのだろう。
それなら14歳の私を殺してもそれでは済まないな。もっと前からクリスマスに私の居場所はなかったということか。
そうはいっても過去の自分は殺せないので、生きるため食材を買いに、光の群れから目を背けて赤と緑にまみれた駅前のスーパーに向かう。