私は褒められ続けても、周りの美女たちを羨んでばかりいた

実は私って“かわいい”んでは……?と気づいたのは、つい最近のことである。
大人になって、親元を離れて、少し美容にお金を掛けられるようになって、自分に似合うものを知った私が、アラサーになってやっと辿り着いた自己評価だった。

親友に「ねぇ、ちょっとおかしなこと言ってもいい?」とアナ雪よろしく前置きし、「私ってかわいいの?」と真剣に尋ねたら大笑いされた。
「だから私はあんたの配置バランスのいい顔面が好きだって、いつも言ってるじゃん!」と答えてくれた。やさしい。
そういえば、確かにこの子は高校生の頃からずっと私の外見を褒め続けてくれていた。
なのに私はそれをなかったことにして、周りの美女たちを羨んでばかりいた。

その要因は、母にあった。私の母はブスに厳しい。
丸いフォルムの自分ことを思いっ切り棚にあげて、街行く人を勝手に己の物差しでブス判定する。
「今の人、太かったな」
「後ろ姿でどんなかわいい子かと思たら……不細工やったで、見た?」
「残念やわぁ」
私が「そんなこと絶対言うたらあかん!」と戒めても、まったく悪びれる様子がなく繰り返す。

抗議しても、「ごめんごめん」と口先だけで言ってへらへらしている母

もちろん娘の見た目に対しても容赦なかった。
「太ったんちゃう?」
「(おっぱいがなくて)かわいそうに」
「顔デカいな」
「その髪型、変やで」
「あんたは完全にパパ似や」(父には失礼だが、母にとってこれは悪口だ)
本人にはそこまで悪気がないのがこれまた厄介だ。
限界を迎えた私が「なんでそんなこと言うん?傷ついたから謝って!」と抗議しても、適当に「ごめんごめん」と口先だけで言ってへらへらしているのである。

私が大学生になると、母は「20歳の頃な、めっちゃモテててん」とマウントをとってくるようになった。
その頃の母の写真を見せてもらうと、確かにかわいかった。私には全然似ていなかった。

日々貶され続けると、人間って洗脳されていく。
私は自分の見た目をかわいいと思えたことが一度もなかった。

整形番組を見て、なんとも言えない嫌な気持ちが胸に広がった

ある日、母がお気に入りの某整形番組を見ていた。
「変わりたいのに親に反対されて…」と涙ながらに訴える出演者に対して「かわいそうになぁ」と安易に同情をする母を見ると、なんとも言えない嫌な気持ちが胸に広がった。
そういう見せ方をする番組も、それを好んで見る母も趣味が悪いと思った。

かわいそうってなんや。何から目線なんや。
結局その人は整形をしたことで自信を持ち、笑顔が増えてめでたしめでたし…という、お決まりの流れだった。
母はそのハッピーエンドに「よかったなぁ」を連発していた。
そして、あろうことか、娘に「あんたは好きに整形したらええんやからな」と言い放ちやがった。
いかにも「私は理解のある親ですよ」と言いたげな顔をしている母を見て、私は絶句した。

他人の褒め言葉を素直に受け取れなかったのは、母の呪いからだった

整形したいなんて一度も口にしたことがないのに。
やっぱり私って、それほど酷いのか……。

親に苦しみを理解してもらえず、整形を反対されるのはさぞかしツラかろう。
だが、親に考えてもいなかった整形を許可されるのもなかなかにしんどかった。
この言葉は未だに忘れられない。

実家から飛び出して初めて、私が他人の褒め言葉を素直に受け取れなかったのは、母の呪いのせいだったと気づいた。
今思えば、母は母である以前に女として娘をライバル視してしまっていたのだとわかる。
きっとそんな母も何かに呪われている。

ある意味、“かわいい”は刷り込み教育なのだ。
あなたってかわいい。私もかわいい。みんな違ってみんなかわいい。
そう心から思える日が来るまで、嬉しかった誉め言葉を自分で何度もリピート再生して、私は母の呪いを上書きしよう。

極論、私が私をかわいいと信じられるようになりさえすれば、誰になんと思われようとどうでもいいはずだ。
人の本質は外見だけで決まるのではないと、私はもう知っているのだから。