「音楽を聞いて、鳥肌がたったことがありますか」
プロになるわけでもないのに私は何のために音楽を続けてきたんでしょうね、と言った私に、ある人が尋ねた。
その人いわく、素晴らしい音楽を聴いて鳥肌が立つことも才能であって、音楽をやってきたからこそ、その演奏の素晴らしさを理解し感銘を受けるだけの感性が育まれてきたに違いないのだという。音楽は聴いてくれる人がいてこそ成り立つものだから、観客である私達も必要な存在なのだよ、と言ってくれた。
音楽や芸術・文章が好きな私は、提供者としての才能があるかは自信がないけれど、少なくとも受け手としての才能に長けていると自覚することができた。

日々の忙しさに麻痺して心をシャットアウト。私らしさが失われていく

けれども社会人になってからの私は、仕事に支配されて私らしさを失っていた気がする。
ビジネスでは「誰にでも伝わること」や「わかりやすいこと」が重視されがちだ。効率がすべて。そのためにはいちいち細かいことは気にしていられないし、理屈の通らないものは排除されてしまう。情緒が邪魔をする。

私も日々の忙しさに麻痺して心をシャットアウトしていた。なんだか自分が機械になったみたいで、人間らしさを失っていたと思う。
休みの日も仕事のことをしている人は、本当にやりたい仕事をしていて趣味となっているか、休日もスイッチを入れ続けることで麻痺から覚めた時に心がしんどくなるのを防いでいるのだと思う。

私も週休2日じゃ仕事が完全に抜けず、土曜のうちから月曜の仕事の心配をしてしまう有様で、無理やり休日に趣味の予定をこれでもかと詰め込んだりしていた。年末年始休暇に久々に趣味も仕事も完全オフにして、自分が疲れていたことに気がついた。

ゆっくり抽出する一滴のように、見えない想いや努力に敬意を払いたい

先日、普段訪れない街でとある喫茶店に出会った。そこは12時間かけて抽出される水出しコーヒーが売りのお店らしかった。
私はコーヒーの味に詳しくないから、そんな時間と手間のかかったコーヒーだなんて、言われなければ気づかなかった。目の前の抽出器から落ちる他の誰かのためのひとしずくを、私は愛おしく思いながら見つめた。
世の中にはこんなふうに、私の気づかないところで誰かが積み重ねている工夫や思いやりがたくさんあるのだと思う。私はそうした誰かの想いや努力に、十分に敬意や感謝を示せているだろうか、価値をわかっているだろうかと不安に思った。

おそらくその人達は、誰にも気づかれなくても良い・わかってくれる人にわかってもらえればいいと思っていて、自分のポリシーがそうさせているだけなのかもしれない。けれど私は、できるだけそれらに最大限の敬意を払いたい。
そしていつか私自身も、他の人から些末なこと・無駄に時間のかかることと言われようとも、世界中の誰か1人にでもわかってもらえたらそれでいい!というような、自分の全神経を使いこだわりを持った何かを創り出してみたい。魂のこもった仕事をしたい。

心に余裕をもち、誰かのこだわりや自分の声に気づける自分へ

具体的に何をするのかはまだ見えていないのだけれど、その第一歩として心に余裕をもちたい。
ゆったりと時間を使って、毎朝コーヒーを淹れるときの香りと湯気を楽しむだとか、仕事仲間と雑談をするだとか、無心で丁寧に部屋を掃除するだとか。
思えばただ忙しいだけでなくて、どこか生き急いでいたところがあるかもしれない。人はいつ死ぬかわからないから、毎日を後悔なく過ごすことも大事だけれど、「こなす」ことだけを考えていると、本当に大事なことが抜け落ちてしまいかねない。

心に余裕ができて初めて、周りの人の気持ちが汲み取れる、誰かのこだわりに気づくことができる、自分の心の声が聞こえる。心が震える映画や音楽や絵画に触れるのも、時間のみならず心の余裕がなければできない。
私が私でいられる時間を増やしていくこと、それが私の2022年の目標。