インドの「日常」も私にとっては新鮮で、特別であった

わたしに旅が必要な理由は、旅は偶然の出会いを与えてくれる機会だからだ。

わたしにとって思い出深い旅は、大学1年生であった2020年の始めに訪れたインドの首都、デリーへの旅だ。
今では懐かしい話だが、当時のコロナ感染状況は中国で始まったばかりで、日本もインドも感染者はほぼ0に等しかった。親も先生も抜きの海外旅行であったし、何しろインドは「人生が変わる」という噂の場所だ。胸が躍らないはずがなかった。
大きな期待を胸に降り立ったインドは、期待以上の場所だった。

多くの人でひしめき合う寺院、薄暗い下町の中に建つ神秘的な雰囲気を纏う霊廟。そんな場所に立つと、インドが織りなす長く複雑な歴史の一員になった気がするのだった。
しかしながら、それら以上に魅了されたものがある。外に出た瞬間に鼻を衝く独特の香り、目覚ましが必要ないくらい鳴りやまない派手なクラクションの音、ジェットコースターかと思えるくらい全速力で道路を走るリキシャ、いつ見ても活気のある市場……。そういった彼らにとっての「日常」も私にとっては新鮮で、特別であった。

良かった思い出ばかりではなく、困難にも遭遇したけれど

また、インドで暮す人々も愛おしい思い出の1つだ。現地では市内の学校に通ったが、彼らは遠い国から来たわたし達をまるで昔からの友人かのように迎えてくれた。
笑顔が素敵なおばあちゃんが作ってくれたチャイを飲みつつ授業を受け、お昼はおばあちゃんお手製の家庭料理を食べた。町に出るとリキシャーの運転手が人懐っこい笑みを浮かべて駆け寄ってくれ、レストランへ行くと嬉しそうに日本語で話しかけながらサービスをしてくれた。

しかしながら、良かった思い出ばかりではなく、困難にも遭遇した。
滞在の終盤、友人の何人かが体調を崩した。恐らく、慣れない環境が続いたせいだろうと思いつつ病院に連れて行ったら、「日本人だからコロナだろう、入院しなさい」の一点張り。わたし達が出発する頃は日本の感染者は0であったことを伝えても聞く耳を持たず、そのまま友人達は入院することになった。
入院させられた理由も、いつ退院できるかも明かされず、食事は病院とは思えない粗末なもの。電話越しに語る友人の声は不安や恐怖で震えていた。

帰国の日が近づいても先行きが見えず不安な中、手を貸してくれたのは現地の学校の人達であった。病院に訪れ交渉してくれたり、授業がない日もメッセージを送って励ましたりしてくれた。
そんな彼らの協力もあってか、無事友人たちは退院し、帰国できたのであった。

「名もなき人」で終わった人々は今どこで何をしているのだろう

学校の人とは今も交流が続いており、偶然の出会いやSNSの普及に感謝しつつ、お互いの近況を把握している。
しかし、今このエッセイを書きながら、ふと考える。デルタ株が蔓延した時、人気のない市場を見てサモサ売りのおじさんは何を思ったのだろう。美味しいアフガン料理を提供してくれたレストランの店主は、8月に起こったアフガニスタンの政変をどのような気持ちで受け止めたのだろう。そういった、偶然出会えたものの「名もなき人」で終わった人々は今どこで何をしているのだろう。

幸か不幸か、インドに行ってもわたしの人生は変わらなかった。
強いてあげれば、自分の新たな一面を知ったぐらいで、もしかしたら、いつかどこかの折で気付けたかもしれない。だけど、インドへ旅をし、沢山の偶然の出会いを得たお蔭だとわたしは思いたい。
だって、わたしの人生にとって旅は欠かせない存在なのだから。