目を瞑り、大きく息を吸う。
ああ、やはり私はこのにおいが好きだ。
ここはミャンマーの空港ではないし、ベトナムの市場でもない。大阪にあるただのタイ料理レストランだ。それでも、今の私にとっては大切な場所だ。
頑張って出社しても吐き気が止まらず、集中して仕事できない
コロナが流行する前、私は学生だった。春と秋にバイトをして、そこで稼いだお金を東南アジア旅行の資金として、夏と冬、「国外逃亡」をしていた。
コロナと就職により、それが簡単にできなくなった私は、少しおかしくなりかけていた。仕事がどんどんつまらなくなり、夜布団に潜り込む時間が遅くなり、朝布団から出る時間も遅くなった。
あー、やばい。夜中にじんましんができるようになるし、頑張って出社しても吐き気が止まらなくて、集中して仕事ができない。
朝、起きて、30分で身支度をして、電車に身体を運ぶ。お腹が空いている日は、最寄り駅から会社まで歩いている最中に、ツナマヨおにぎりを流し込む。昼食に、日曜日に作り置きしていたカレーを解凍して食べる。必要のない残業はしたくないから、16時57分、切りよく仕事が終わるように片付けて、明日のやることを決めながら、残り3分を過ごす。
あのぬわっとしたあの空気に触れたい。最寄りのタイ料理店へ
こんな毎日を少し変えたくて、ぬわっとした空気に触れて、何故か好きになってしまった、東南アジアに旅に出たくなった。
でも、コロナ。どうしようもなく、スマホを取り出して、検索する。
「大阪 東南アジア」。自宅の最寄り駅近くにあった、タイ料理店に行ってみることにした。
駅から少し遠い。それでも、それらしきライトアップされた看板を見つけると、ワクワクしてきた。いつもなら、次を待つ点灯中の青信号も、今日は駆け出してしまう。店の前に着き、取っ手に手を置く。ちょっと重い。気合いを入れて、扉を開ける。匂い、飛び交うタイ語、装飾。
あっ、好きになるな。
おすすめメニューを注文した後も、分厚いメニューを手放さず、隅々まで読んで、東南アジアを全力で感じ取ろうとする。
これは、ラオスで食べた、スパイスの効いたサラダと似ているな。あ、カオマンガイ、揚げバージョンも選べるんだ。この紅茶缶、タイでお土産として買ったのと同じだ。今度来たときは、これにしよう、いや、こっちもいいな。何回来たら、食べたいもの全部制覇できるだろうか。ガンガンに冷えた東南アジアビールより、ぬるい気温の中、冷え切っていない東南アジアビールが美味しいんだよな。
景色が、味が、香りが、音が、私を旅に連れて行ってくれる
12月おすすめメニューの豚煮込みご飯が届いた。カトラリー入れから、スプーンとフォークを取る。この薄さ、東南アジアの食堂を思い出す。右手にスプーン、左手にフォークを持ち、さあ、食べよう。鶏肉にたれをかけ、ご飯を一口分スプーンで取り、先程の鶏肉をその手前にのせる。鶏肉とご飯を一口で口に入れる。あー、この香り、このほろほろ具合、タイだ。
景色が、味が、香りが、音が、私を旅に連れて行ってくれる。
毎日がつらく感じるようになって、旅に出たくなったら、また「大阪 東南アジア」と検索するだろう。
最後の一口、目を瞑り、大きく息を吸う。