ちょうど1年前の年末、奮発して大画面の4Kテレビを買った。 毎日家にこもる日々が続き、何か非日常的な体験がしたくなったのだ。

大きくて新しいテレビは、音も立体的で高精細な映像も美しい。
自分の肉眼で見るより、よっぽど美しく鮮明に世界中の絶景を堪能できる。
酷い近視と乱視の私の目では、現地を訪れ肉眼で見たとしても、こんなに綺麗には見えないはずだ。
すぐに夢中になり、テレビの画面をスマホで撮影し、家族に送りつけて自慢する。

しかし、半年もたつと4Kテレビでは満足できなくなってきた。
どんなに画面の中が美しく、一生訪れることができないような絶景であっても、そこには匂いがない。熱もない。
今の日本には世界中の食べ物が揃い、コロナ禍でデリバリーも発達した。自宅でテレビを見ながら、見ているその国や地域の食べ物を食べられる時代になった。
まだ現地の気温や湿度までは感じられないけれど、いずれそれさえも体感できる時代がくるのだろう。

けれど、どうしても何か物足りないのだ。

単調な日々も孤独も好き。だけど、強制されるのは耐えられない

私は本来、同じ場所で、同じ生活を繰り返す心地よさが好きだ。孤独も単調な毎日も平気だ。平和でいいじゃないの。そう思ってきた。
けれど、自分の意思で孤独や単調な日々を繰り返すのと、コロナ禍で国や他者から求められてそうせざるを得ないのとではやはり違う。
そしてそれが予想外に長期間続くと、自分の存在がだんだん溶けてなくなっていくような感覚になってきた。それは工場でのライン作業に似ている。

次々と流れてくるキノコ。同じスピードで、同じリズムが繰り返される。没我の境地は心地いいが、長くは続かない。
だんだんと自分とキノコとゴムのベルトコンベアーの境界線が混ざりあって曖昧になってくる。そして人間である自分の体から意思が抜け落ち、キノコやゴムベルトの方が意思を持ち始め、人間を支配して動かしだす……そんな気持ち悪い感覚に陥るのだ。

知らない土地で「よそ者」になることで、自分の存在を再確認する

私は紛れもなく1人の人間で、今地球上に、ちゃんと足をぴったり着けて立っている、そんな実感が欲しい。
これ以上自分の存在が薄くなって、意思のない機械のようになっていくのは嫌だ。

夜中一人でそっと目を閉じ、コロナウイルスなんて存在を誰も知らなかった、2年半前の夏を思い出す。
タイのビーチへ1人で旅行に行った。日本の夏よりずっと強烈な、目も開けていられないほどの日差し、茹だるような暑さ、マンゴーやナンプラーやスパイスが混ざった、食欲を誘う匂い。
景色、気候、食文化、言葉、人。全てがいつもの生活と違う。直前に覚えた簡単な挨拶でさえ、現地では聞き取ってもらえず通じない。
これでもかというくらい、自分が"よそ者"であることを実感する。けれど、それが全然嫌じゃないのだ。
いい意味での違和感が生まれ、周囲と自分の境界線が鮮明になる。間違いなく私は今ここに存在しているんだな、と感じ、安心する。

ずっとその地で暮らしていくのなら、よそ者感は辛くなるだろう。けれど、数日、数週間までの滞在ならかえってその違和感が心地いい。

自分のためだけに訪れるのは無責任?それでも私は旅をやめられない

きっと長く住めば美しくないところや人付き合いの面倒さ、生活の不便さなど、色んな側面が見えてくるのだろう。せいぜい数日しか滞在しない私は、いいとこ取りのお気楽な旅人でしかない。
何かできるとしたら、ほんの少しだけ経済をまわすことぐらいだ。旅行は自分本意な行為で、時に無責任だなとさえ思う。
それでも私はただ自分の存在感を確かめるためだけの、何の目的も使命感もない旅が好きで、そう簡単にはやめられそうにない。

非日常を味わうなら、映画館や舞台を観に行くのもいい。けれど、旅はそれらとはまた違う特別さがあるように思う。
今自分がいるこの場所から離れることそのものが楽しいのだ。
私にとって、行き先や、訪れた先で何をするかはあまり問題ではない。家を一歩出た瞬間から旅は始まっている。

体が一瞬で軽くなる。フワフワと新幹線や飛行機に乗り、無事現地に着地した瞬間、あぁやっぱりこれが必要なんだ、と確信する。