バリキャリは、仕事以外の話ではあまりエネルギーが使えない
謙虚な姿勢という名の鎧を一切脱ぎ捨てると、わたしは間もなく本格的に、日本社会において高学歴アラサー女性と呼ばれる人になる。いかにも社会に順応できていないまま。
あたりを見渡すとアラサー女子は、積極的に恋愛をしている。恋愛のために生活をしている。ガヤガヤと賑わう市場から離れたところで、わたしは強い武器を持ってしまっている。
わたしはこれまで中高一貫校でガリ勉、大学でもなんと引き続きガリ勉だった。大学生の時は、恋愛やアルバイトなど課外活動も取り組んではいたけど、やはり勉学が大半を占めていた。
卒業後、実力主義の企業に勤め、そこそこのやり甲斐と稼ぎは得ている。
だけど、会社という組織の中でシナプスを紡ぎ合うが如く対話をしたことがある人、あるいはしたいと思えた思える人は一人たりともいない。決して嫌いだとかタイプが合わないだとか突き放しているわけではなく、とかく会社の人ともなると仕事以外の話ではあまりエネルギーが使えない仕様のようだ。
かつ、仕事100%の状態ともなると、社外で恋愛活動することは極めて困難だとわたしは感じている。時間がないのもそうだし、無理矢理作ったとしても体力的に厳しい。
告白という儀式には憧れる。でも恋愛市場には乗ることができない
恋愛は頭ではなく心でするものだと誰かが言ってきそうだけど、いかんせん硬くキシキシとした物質たちがわたしの中で絡まり合っている。まるでスチールウールだ。
それなのに、もう、高学歴アラサー女性になりかけている。結婚や出産を強いられている気がする。
でも、恋愛市場に乗ることができない。
これまでに経験した恋愛は、儀式を経たものと経てないものとが幾多かあるが、いずれも自らとことん好意を抱いたわけではない。
当時は確かに熱が高かったかもしれないけど、今思うと自身を市場のオンナとして繕っていた可能性も、恋に恋していた可能性も非常に高く、なんだか本質的ではなかった気がする。
とはいえ儀式を経た方々とは少なからず添い遂げたいと思っていた。恋愛ごっこをしている中で良くも悪くも頭でっかちが働き、パートナーになりたい、パートナーにしたいと思った人とのみ儀式を行った。
先ほどからの儀式とは、ターゲットに好意を告白をして"付き合う"という約束をする行為だと呼んでいる。恋人、彼氏や彼女という型にはめ込む作業だ。
大抵の場合は好意があることを黙認し合っているため、わたしには不毛な儀式に思える。
矛盾するが、わたしはその儀式とりわけ告白に憧れの念を抱いている。バレンタインデーやクリスマスの日にプレゼントを以てターゲットに告白してみたい。そしてフラれたい。キラキラした環境でドン底にいきたい。
おそらく型入れには失敗するだろうけどこの愛を伝えたい、ただそれだけの気持ちを言葉にしてみたい、それくらい誰かのことをすきになってみたい。
恋愛以外でわたしのこのニーズは叶わないのかしらと、また逃げようともしている。今のところ思いつかない。
「その場の流れ セックス」という検索履歴。ますます恋愛に対して億劫に
最後に恋人だった人とは、婚約まで至っていた。
当時は純粋無垢で何の疑いもなく、彼と出会った頃から結婚という言葉が頭をよぎっていた。
ただしやはりそこに好意はない、だからこそ数年後セックスはおろかデートをすることもなくなり、美しい自然消滅で幕を閉じた。恐竜が絶滅した時よりも物静かだったと思う。
何もかもレスになった頃からますます恋愛に対し億劫になり、する必要性も全く感じなくなっていた。凪期だ。
気持ちを泳がせることはしなくとも、20代なんだからせめて性欲だけでもと友人から意見を頂戴するも、性欲がわかない。機会がなかったわけではないが毎度丁重にお断りしていた。
人が裸になるタイミングが入浴時以外にあり得るのかという問いが生じるほどにセックスの仕方もわからなくなり、「その場の流れ セックス」といういかにも愚かな検索履歴がわたしのGoogleアカウントに残ってしまった。この頃から凪期アイデンティティが芽生え始めた。
ちなみに、わたしの記憶に残っていないことが証拠となるが、その検索では何も掴むことはできていない。
困ったことに、凪期は楽しい。
自分の中に煩悩がない、誰からも邪魔されない、完全なる独り立ちとも錯覚できる。
わたしに相応しいパートナーはいないんだな、と誰に依存することもなく自己肯定感が史上最強に高いまま日々を生きている。
以前は死ぬ前になんでも経験したいからという一心で、結婚も出産も育児もしたいと思っていた。
今はどうだろう。わからない、関西人の「行けたら行くわ」と同じだろうか、いい人がいたら。わたしに相応しいパートナーがいたら。
社会からかけられている期待と、わたしの恋愛価値観とは暫く平行線を辿りそうだ。