究極の自由意思を尊重する思想は、自我を貫く「わがまま」と表裏一体
やりたいことしかやりたくない。ああしろ、こうしろと、束縛されるのはたまらない。
結局はこれが本音だったと聞けば、周囲はどんな反応をするだろうか?
「なんてわがままで、迷惑なやつなんだ」
そんな批判が飛んできたら、私は傷つきながらも光栄に思うかもしれない。
愚かしくも真っすぐに、我を忘れずに生きることは、アナキズムの精神に直結する。自分の生を誰にも明け渡さない。私は私を生きる。究極の自由意思を尊重する思想は、自我を貫く「わがまま」と表裏一体である。
100年前、女性の自立や連帯を掲げて闘った一人の女性も、誰に何と言われようと、最後まで信念を貫いた。大正時代のアナキストであり、婦人解放運動家の伊藤野枝である。
村山由佳著『風よあらしよ』(集英社)から、その鮮烈な生涯に触れた私は、いかなる社会道徳も、組織も制度もイデオロギーも、個人を縛るものであってはいけないと強く思った。
波風立てずに生きることができない人間の、その人生。 読後、唐突に会社を辞めてしまった自分に野枝の人生が投影される。
高校演劇部の恩師から部活引退時に授かった一文字は、「電」だった
尋常小学校に通っていた子供の頃、野枝が妹のツタと帰る田舎道を、耳がちぎれ飛ぶほどの強風に逆らって歩く描写がある。そのときの記憶を回顧し、未来の自分を夢想する場面でタイトルに象徴される一節が登場する。
吹けよ あれよ
風よ あらしよ
強い風こそが好きだ。逆風であればもっといい。吹けば吹くだけ凧は高く上がり、トンビは悠々と舞うだろう。
吹き付ける逆風を自らたきつけ、存分に煽ったあげく、終いにはそれすらも推進力に替えてしまう女。
実際にいたら厄介極まりない人間だが、身に覚えがある。今は亡き、高校演劇部の恩師から部活引退時に授かった一文字は、「電」だった。
「『電』(いなづま)という字です。私は知っています。表向き大人しく、シャイなあなたの裏腹の姿を。それは、まさに『いなづま』のごとく、激しく情熱的で、妄想激しく、面食いであることを。このギャップこそが、あなたの真の姿なのです。
おそらく、フツーの女性で終わらないであろうことを予測する私は、あえての『電』をあなたに贈ります。頑張ってね」
感覚に基づく行動を、「わがまま」と断じる風潮はなぜ根強いのか
思えばもともと黙っていられない性格だった。思ったままが口から出ていく。それ相応に分別のある人間なら、正社員という安定を容易く手放したりはしないだろう。
家計を助けるために、高等小学校卒業後は村の郵便局で働いていた野枝が、やがて向学心を抑えきれなくなったように、私の内に潜む衝動も見過ごせないものだった。
慎ましやかに暮らすよりも、命を燃やして生きたい。小学校の頃から漠然とそんな野心を抱き、奔放に生きてきた「電」にとって、会社の一部となって仕えるだけの日々には飽き足らなかった。
しかし、野枝のようにあらゆる支配を拒否する態度は、しばしば誤解を生みやすい。
「一年で会社を辞めるなんて迷惑だ」。退職した直後は外野から、そう非難されることもあった。
周りがどうであれ自分の感覚に基づいて行動することを、「わがまま」「迷惑」と断じる風潮は、日本においてなぜ根強いのか。集団からの逸脱を自ら選び取った以上、否応なく考えさせられた。
会社も例外ではない。長い物には巻かれておけばいいなんて、御免だ
野枝は3番目の夫、大杉栄と共に当時のアナキズムを牽引した存在だが、「無政府主義者」と聞くと、どことなく物騒な印象を抱いてしまう人も多いだろう。
「アナーキー」という語は、ギリシア語で「支配がない」状態を示すという。その要には無秩序な破壊ではなく、助け合いがある。機能不全に陥った政治下で、人々は自発的に協働する。それは私が私であるという主体を持った個人が集ってこそ、可能になる。
目の前で生じる事柄に疑問を持たず、行動する前にその影響を鑑みて「自粛」を求める。
コロナ禍において加速した、過度に他人を取り締まる風潮は、アナキズムを携えてみると、自立とは対極にある発想に思えてくる。
感染拡大に歯止めがかからぬ中、強行された東京五輪も異様な風景だった。不寛容な世の中とは裏腹に「多様性」が謳われる様には、どうしても白けてしまった。
根底にある実感には蓋をし、過剰に体制に適応しようとする社会に、いい加減辟易している。空気を読みあい、互いを監視し合う風土に慣れてしまえば、やがて自己をも疎外してしまう。社会の縮図である会社とて、例外ではない。
長い物には巻かれておけばいいなんて、私は御免だ。服従するな。立ち上がれ。衝動的に辞めてしまったものの、退職という行為への意味づけが、時間を経るごとに色濃くなっていくのを感じた。
得体の知れない感情こそ、自分を知り他者を知る、手がかりとなる。
9月16日は、野枝の命日である。関東大震災の最中に憲兵隊によって虐殺され、28年という短い生涯を終えた。だが野枝は死の間際まで、理不尽な支配に屈しようとはしなかった。
自分さえよければいい。表向きに掲げられた理想とは裏腹に、そんな空気が社会を覆っている。それは逆説的に、現代人が自らを蔑ろにし続けてきた故の副作用ともとれる。
実感をもてないものに安易に迎合してしまうくらいなら、もっと一人ひとりが、己に内に潜む欲求を解放するべき時ではないか?
何に癒され、何に怯え、何を守りたいのか?得体の知れない感情こそ、自分を知り他者を知る、手がかりとなる。
私たちは、もっと不真面目に生きたっていい。オルタナティブな世界は、その先にはじめて姿を見せる。