自分の思考を自分の言葉で表すという作業が、好きだと気づいた

私はこの2022年、自分で誇れる自分になりたい。

いつも、やりたいことを「やれたらいいなぁ」、やめられるはずのやりたくないことも「やめたいけど……面倒くさいわ」なんて、どちらのことも永遠に先延ばしにしすぎていた。
そんな私のことを、私は呆れ返っていた。

私は今年、何も動けない自分を卒業して、自分で誇れる自分になる。まず今の段階で決まっていることの1つは、これを書き切って投稿することである。

私は中学生の頃、自分の思考を自分の言葉で表す、という作業が好きであることに気づいた。
たとえそれが自分の頭の中で発しただけで消えてしまったとしても、である。

中学生や高校生の頃は、思考を可視化すること、伝達することは極わずかであった。
そのため何か思いつくことがあったとしても、他人、特に身内でない不特定多数に向けるなんてこと、一切考えていなかった。

やり始めた熱を頑丈なコンクリートで囲んでいては、意味がない

だからこそ、なのだろう。いざ他人が自分に視線を向けた時、私はどうすることもできなかった。
「待って、待って」
私は必死に言葉を紡ごうとした。
だが、その時既に視線は、色をなくしているか、もうそこにはないかであった。
それを幾度となく繰り返し後悔しやっと、大学生になろうとする時に、私は、自分がどれだけ損をしていたのかを知った。

「伝わらなければ、考えていないことと同じだ」

といっても大学生になった2020年、2021年と、特別沢山書いた!というほどでもなかった。ブログを開設し、趣味から哲学的なことまで書いてはいたものの、合計でも両手に収まるほどであった。

やり始めたことは自分でも評価する。評価するが、あんた、その熱を頑丈なコンクリートで囲んでいちゃ、意味ないのよ。
まとまらないだとか、沢山書けるほどのネタがないとか、マイノリティだから批判されるだとか、しっかり自分を防御していて、書くのさえ面倒くさがっていたら何も、何も。

それでは結局今までと同じである。

だから私は今度こそ、自分のためにも、この誇れる自分の脳内を世界に晒すことをここに誓う。待っていろ、世界。

さすがに疲れた。勝負はせずに円満に、さよならを告げに行きたい

そして今自分を苦しめているものの断捨離も、既に決まっていることである。苦しめているものとは、アルバイトである。
私はもう、アルバイト先アンチで仕方がない。

私は現在パン屋でアルバイトをしている。
田舎にしては時給が良いと思うし、パンもおいしい。
客側から見たら、接客も悪くはないと思いたい。

だがその裏の闇が壮絶すぎた。
1年以上我慢して、何度も辞める辞める詐欺をしてきたが、そろそろ限界だと私は思う。

何度もクビ覚悟で、不可解なところを店長や社長にまで言おうかと考えた。
たださすがにそれは、いつも自分の中で棄却される。
私と店、どちらが正しくて間違っていて、良いか悪いかなんて決着をつけるには、価値観以外のこの国の法律(ルール)の知識が必要であったからだ。
もしかしたら私の主張が誤っているかもしれないし、単に自分の精神衛生の問題なだけかもしれないということもある。
そして何よりも面倒くささが勝ってしまう。働けばお金は貰えるので。

そうして私は辞める辞める詐欺を続け、闘志だけを燃やして消してと続けてきた。
だがそれはさすがに疲れた。
だから一度、勝負はせずに円満に、さよならを告げに行きたい。
始めた当初の、できないことへの悔しさへの涙ではない他の涙を流す回数が、増えてきているのは決別の合図だろう。
辞める辞める詐欺とも店とも決別し、さよならをきちんと告げることをここに誓う。

軽快に立ち上がり、走っていく。その表現が似合う人となりたい

ここに書いた2つのこと以外にも、これから1年生きていく間には沢山の「やりたい」「やりたくない」が出てくるだろう。

欲望に反することが自分のためであると、法律(ルール)や価値観から判断した場合を除き、私は自ら行動を起こす。

それが私の考える誇りである。

重い腰を持ち上げる、という表現よりも、軽快に立ち上がり、走っていく、という表現が似合う人となりたい。
そうして誇りある存在と言える自分になる。

これが「2022『私』の宣言」である。