私は旅行が嫌いだ。
『非日常を味わえる素敵な時間』『最高の思い出を作ろう』なんてキャッチコピーの書かれたポスターを、居酒屋のトイレでよく見かける。それを見る度に、そんなものが旅行ひとつですぐに手に入るわけないだろう、と呟いてしまう。

旅行会社の宣伝文句から取ってつけたように同じ言葉を吹っかけてくる友人にも、疑いの目を持ってしまう。それは本当にあなたの言葉ですか、と。

幼少期の記憶を皮切りに、旅行はわたしにとって苦い思い出ばかり

記憶に残る一番古い旅行デビューは、家族と行ったディズニーランドだ。
あまりの日常との乖離に興奮してしまった私は、開園と同時に園内に駆け込み親とはぐれてしまった。見つけたときには瞳孔が開いて注意の言葉が耳に届かなかったようで、親は私の頭を叩いた。
正気を取り戻した私は、親の怖い顔と叩かれた痛みで泣き出してしまった。その後はショックを引きずっていた為、楽しい場所で随分気落ちした顔つきの少女が家族に連れられた様子が見られただろう。

旅行の苦い思い出はこれを皮切りに続いた。
小学校の5泊6日で行われた林間学校では、あまりに過密なスケジュールに熱を出して、キャンプファイヤー直前に早退した。

卒業旅行中は友人と馬が合わなくなっていたため、グループ行動でも一人はぐれていた。
中学は友達付き合いがとても浅かった為に、特別な友達を作られずグループ行動は精神的に参ってしまった。
高校では喧嘩によって仲間外れに遭っていたクラスメイトの一人が、一時期私達のグループに身を寄せていたため、少し気を遣ったのを覚えている。
大学生での卒業旅行は就活で予定が合わず行けずじまい。
学校旅行なんてそんなものだ、と言われてしまえばそういうものかと納得できるが、私の場合そうではない。

直前に感じる「行きたくない」という不安は経験から強くなるばかりで

気の置けない友人と旅行に出掛けた先では、疲れから失言をしてしまい険悪な空気になったことが幾度もあった。
家族水入らずの旅行では、気まぐれな親の感情の機微に敏感になって、気の休まることはなかった。

そんな訳で、私は旅行が嫌いだ。
平凡な毎日をほんの少しのスパイスで彩って、日々を継続していく方が楽しいと思う。旅行の非日常に、日常の籠から飛び出した私は、いつだってどうしたらいいかわからなくなっているらしかった。

数日前からの計画に心がはやり、日常と想像する旅行内容との違いに、直前になって行きたくないと思ってしまうことがある。想像が期待を上回り、楽しくなかったらどうしよう、計画通りにならなかったらどうしよう、と不安ばかりが先行してしまうからだろう。
この思考は毎回期待を裏切られる結果となった経験から生まれたものだから、こればかりは仕方がない話だ。

雑談の中でふとこの話題になったとき、「旅行は嫌い」と言えない自分がいる。
だから他人が共感しやすいような、例えば事前準備や日程調整といった「面倒臭いこと」を挙げて、「嫌い」な理由を避けて説明する。
これらすべてが、私にとって「旅行が嫌い」な理由だ。

行きたいと思える場所に行きたい人と行くことの楽しさに気付いた

そんな私が旅行をする機会がつい最近あった。
船舶含めて4泊5日の家族旅行。一人暮らしをしている兄弟と合流して、その土地で2泊3日楽しんだ。少し大人になった私と、随分と性格が丸くなった親。久しぶりの兄弟との再会に、あっという間に時間は過ぎた。

帰りの船舶の布団の中で、そういえば一度も嫌な気持ちになっていないことに気が付いた。疲れて失言することも、気まぐれな言動に振り回されることもなかった。もちろん、前日に行きたくないと思うこともなかった。
帰り着いてから、大量の服を洗濯し、化粧品を元の位置に戻し、鞄を開けて日干しにする。

とても良い旅行だと思った。また行きたいとも思った。行きたいと思える場所に行きたい人と行くのが、こんなに楽しい時間になるとは思わなかった。
日常にほんの少しスパイスを掛けて味わうくらいが丁度良いと思っていた。そのスパイスに「旅行」という、時間もお金も掛かって面倒臭くて少し憂鬱な気分にさせる、そんな大変なものが追加されそうだ。

やっぱり、私は旅行が嫌いだ。