私には2021年の1月頃の記憶がイマイチ残っていない。ただ覚えていることは、2020年の秋にぶり返した鬱を引きずったまま、毎日死んだように日々を送っていた事くらいだ。

鬱の症状で文章を書けなくなり、生きる意味さえ失いかけていた

鬱の症状が落ち着いてきたのは2021年の春頃で、6月に始めたかがみよかがみへのエッセイの投稿を皮切りに物書きとしての活動を再始動した。
一つの作品を書き上げられたことによって「私はまた文章を書くことが出来るようになったんだ」という自信を得ることが出来た。これは大きな一歩だった。

鬱の症状で一番困るのは頭に靄がかかったようになって、ぼんやりとしてしまう事だった。何か書こうにも集中出来ないし、何も浮かんでこないのだ。文章を書く事が取り柄の私にはそれは恐ろしく感じられた。
書けないという事は本当に自分にとって致命的な事で、書けなくなったことによって生きる意味を失ったと言っても過言ではなかった。それぐらい、私にとって文章を書くことは重要なことだったのである。昨年の今頃の私は鬱の症状のせいで書けなくなったことによって、生きる意味さえ失いかけていたのだった。

エッセイを書くことは自分の人生を振り返り、向き合うということ

エッセイを書くということは自分と向き合うということにもなる。自分のことを書くとなると、記憶を頼りに自分の人生を振り返り、そして時にはそれを客観視して書くことになる。それは私にとって目をつぶりたくなるようなことでもある。
自分の人生を客観視して振り返ってみて始めに気づいたのは、私の人生は空っぽだということだった。自分でも驚くほどに自分に関する記憶がない。ただ忘れているわけではなくて本当に何もない。
その理由は案外簡単な理由だった。私は自分自身のことを遠ざけて避けて生きてきたのだった。

私にとって書くこととは自分のことを考えずに済み、他のことを考えていられる逃避方法の一つだったのかもしれないと振り返ってみて思う。
私はずっと私を愛してあげられなかった。理由のほとんどは自分の容姿と体質のせいだ。
アイプチが意味をなさないほどの腫れぼったい奥二重のまぶたのせいで暗い印象になりがちな顔も、対策をとろうが御構い無しに毎日のようにお腹の不調ばかりを引き起こす体質も大嫌いだ。この二つのコンプレックスに振り回されてばかりで、思い通りに動けないことばかりだった。

書くだけだった人生を、意味のあるものにしてあげられるのは自分だけ

エッセイを書くにはどんな記憶も含め、全ての自分と向き合わなければならない。
私は記憶を頼りにエッセイを何本か書いた。時には苦しみながら書くこともあった。でも書いてみるとごちゃごちゃとした頭の中が整理されていくのがわかった。辛かったことも抱えたままのモヤモヤも、エッセイとして振り返りながら整理して書くことで昇華されていく気がした。
エッセイで自分を客観視して頭の整理をする事で溜まっていた頭のモヤモヤが減る。そうする事で他のことを考える余白ができ、創作活動により専念することができるようになった。

今までの私は現実の自分に見切りをつけ、書くことだけに尽くしてきた。
私の生み出す想像の世界は自由で、自分の中の不自由さなんてこれっぽっちも関係なかった。書いている間は私の人生を振り回し続けてきた不自由を遠ざけて、ずっと無敵の私でいられる。だからきっとこれからもそれはずっと変わらない。でもその結果が今の私を作っているのだとすると、それを意味あるものにしてあげないと、過去の私はずっと報われないままだ。

私の書くだけだった人生を意味のあるものにしてあげられるのは自分だけだ。
だから私の2022年は去年書けなかった分もたくさん書いて、費やしてきた時間以上の結果を出せるようにする。結果を残すこと、それはずっと避けてきた自分自身を肯定してあげることにも繋がる。あれは逃避ではない。「自分が自分であるためにしてきた意味のある行動だったんだ」って。

今ここに宣言する。書くことこそ私の人生。だから私はこれからも文章を書き続ける。
これが2022年の今を生きる私の宣言。