私の毎日は、おじさんのことを考えるので忙しい。
私は、29歳のピチピチのOLだ。もう、アラサーではないかとご指摘を受けるかもしれないが、ピチピチなのである。
そんな、ピチピチな私なのだが、おじさんの要望に答えるのが私の仕事であり、部内最年少社員の使命でもある。
大学卒業後に待っていたのは、おじさんの期待通りに仕事をすること
我が社は、歴史を誇る日系の製薬メーカーであり、歴史のある会社にありがちな「年功序列」という絶対的な掟が存在する。この絶対的な掟のおかげで、経営企画部という名ばかりは未来的思考が必要な部署に所属していても、実際の仕事内容はおじさん方が期待する事業企画を、おじさん方が納得するように社内に根回しし、誰も発言しない役員会まで稟議を通すことである。
「君、この案件は生産本部長の決裁だから、まずは経営企画部のグループ長の決裁をとり、社内の電子決裁システムで起案しないと。その後に部長の決裁を待ってね。それが済んだら、次は生産本部のグループ長、部長の決裁が必要だね。あ、もちろん決裁システムに入力する前には事前にお話ししておかないといけないよ」
上司からこう指摘されたならば、私のおじさんスタンプラリーが始まるのである。
そうして毎日おじさんの決裁に塗れる私は、よく自分を見失う。
歯を食いしばり、予備校に通いつめ、壮烈な受験戦争の末に大学を卒業したものの、待っていたのはおじさんの期待通りに仕事をすることで、おじさんスタンプラリーをすることである。それは小さい頃に期待していた未来だったのだろうか。
揚げたてのコロッケパンを食べながら思い出したのは母の言葉で
無邪気にコロッケパンを食べながら、
「あーちゃんは、将来ね、イタイイタイ思いをしてる人を助ける人になるよ」
と母に語る少女に胸を張って、目の前に立つことができるのだろうか。
こんなふうに、自分で自分に問いかけても、答えがスッとでない時に私は自転車で旅にでる。小さい頃に自分が過ごした町へ、思い出のコロッケパンを買う旅を。
私の思い出のコロッケパン屋は、荒川区南千住にある。青木屋という店である。
64歳の母親が小さい頃からその店はあったので、もう60年以上コロッケパンを売り続けている店である。
その店で買うものは20年以上いつもおなじ。
コロッケパン1つ、ハムカツパン1つ、森永の紙パック牛乳2つである。
私はコロッケパンを、母はハムカツパンを食べながら1週間学校であったことを話すのが決まりで、それを『コロッケパンの儀式』と呼んでいた。
コロッケパンの儀式は私が中学3年生になり、母が病気で倒れるまで続いた。
リレーの選手になるために、毎日練習しているけど全然成果が出ないこと。
名前がりんごみたいだと友達に馬鹿にされて、すごく怒ったこと。
文化祭のクラス責任者として、うまくクラスのみんなをまとめることができないこと。
友達と恋愛のいざこざで気まずくなってしまったこと。
コロッケパンの儀式では沢山のことを母に話した。
毎日の出来事に真剣だったのだ。真剣に、どうしたらいいか悩んでいたのだ。
懐かしい気持ちになりながら、揚げたてのコロッケパンを食べていると、
「どんなに辛いときでも、どんなに反省しても自分のことを嫌いにならないこと。自分のことを考えてあげるのよ。パパとママはいつまでも一緒にいてあげることはできないから、自分だけはいつも一緒にいてあげてね」
という母の言葉を思い出した。
自分の気持ちを放置しないために必要なのは「コロッケパンの旅」
ハッとした。ここ最近自分のことを考える時間を作らずに、自分の気持ちを放置していた事に。
代わり映えしない日常を、おじさんのせいにして、幼少期の夢である、イタイイタイ思いをしている人を助けるために、今自分ができることは何か、を考えていなかった事を。
まずはおじさんたちに物申すところからだ。
おじさんのことばかり考える毎日を変えるのだ。
「明日、会社のおじさんたちに仕事のやり方について、考えていたことをぶつけてみよう」
そう決意し、心のモヤモヤを牛乳と一緒に流し込んだ。
ハムカツパンと森永の紙パック牛乳をカゴに入れる。
そして、明日の自分への思いやりと希望を詰めこみ、29歳のOLは青春風を吹かせて、自転車をこぐ。
自分を見失いがちな私には、コロッケパンの旅が必要なのだ。