「私はひとり旅が好き」「安宿に泊まって、その土地で過ごすだけでもいいの」そう話せば、毎回、周りには怪訝な顔をされる。
「寂しくないの?」「女ひとりで何するの?」「お金払って行く意味はあるの?」と。
正直うんざりしているし、私からすると、失礼で心外な反応に思う。
「あなたは連れと目的がないとなぜ旅ができないの?」
ぜひ、そう問い返したいものだ。

もちろん、私だって友人との旅行は楽しい。世界遺産や素敵なホテルには心躍るし、食べ歩きやショッピングも好きだと思う。でも、それらはオプションのようなものであって、私を旅に駆り立てる理由ではない。

暑いアジアの国での出来事が、広い視野を持つ目を私にくれた

私が旅をするようになったきっかけは、初めて異国の地を踏んだときだ。
高校生の夏。暑いアジアの国。暑さにも驚いたが、それ以上の衝撃があった。
お店で買い物をした時のことだ。店員がなんとレジカウンターの上に座っていた。全くの無表情と温度のない声で接客をされ、渡す紙幣の種類まで指定された。
店員は笑顔で礼儀正しく、丁寧に接してくれるのが当然な日本育ちの私や友人たちにとって、これは大変なショックだった。
他にも、水道水が飲めず、水を買いたくても自動販売機がない。バスは時間通りに来ない。日本では信じられないことが次々起こり、私たちは困惑し、とても苛立った。

でも、私はふと気づいたのだ。
もしかして、おかしいのは日本の方ではないのだろうか。
日本は清潔で、便利で、時間に厳格で、アルバイトでも接客のレベルは高い。本当に、異常なほどに、だ。
でも、そんな至れり尽くせりな環境が、そもそも私たちには本当に必要なのだろうか。それを自分は享受できて当たり前だと、なぜ私は思っていたのだろう。

今まで考えたこともなかった疑問が次々と浮かんできた。同時に、視界が急に広がったような気分を味わった。そして、苛立ちを抱いた自分が急に恥ずかしくなった。
初めて踏んだ異国の地は、確かに、広い視野を持つ目を私にくれたのだ。

生きるために必要なものは、それほど多くはない

あれから、日本はもちろん、いくつもの国を旅した。美しく壮大なものをたくさん見た。
美味しいものをたくさん食べた。身綺麗で親切な人とたくさん出会った。

でも、私の心に鮮明に残る思い出は、なぜかそういうものじゃない。
ガタガタで穴の開いた道路。
汚水や独特の香りが混ざる町の匂い。
水の流れないトイレ、お湯の出ないシャワー。
ストライキであっさり麻痺する交通機関。夜や休日になれば容赦なく閉店する商店。
町中にいる様々なホームレスや物乞いたち。
信じられないような境遇を持つ個性的だけど逞しい人々。陽気だけど、どこかすべてにルーズで適当すぎる人々。

たぶん、多くの人は嫌がり、時に日本と比べ、見下すような要素ばかりだろう。私も、もしかしたらそうだったかもしれない。
でも、いつからか、そういうことが悪いこと、劣っていることだとは感じなくなった。むしろ、それくらいの方が人間として自然だと感じ、息がしやすい自分がいる。

トラブルや不便に見舞われても、悪い思い出にするのも、楽しい笑い話にするのも結局私の考え方次第だ。ないものねだりをせず、あるもので工夫することも学んだ。
私が幸せに生きるために、本当に必要なものは世間がいうほど多くないことに気が付いた。

旅は、私が私の意志で考え、選ぶ自由をくれる

常識なんて、場所や時代によってコロコロ変わる。国や土地や宗教が違えばどんな価値観もひっくり返る。その人の生きてきた環境や、経験や、立場が違うだけでも簡単に意味を失う。
それを私は、忘れずにいたい。

「旅」は、いつも常識の檻をぶち壊して、私が私の意志で考え、選ぶ自由をくれるのだ。
そして、時には私の頭を殴りつけ、知らぬうちに溜め込んでしまっていた、自分の狭い固定概念や傲慢さに気が付かせてくれるのだ。
自分と相手の常識が違うことを、苛立ちではなく、新しい世界を知る面白さに変えてくれるのだ。
私はそう考えられる人間でありたいと思う。そのために「旅」が必要なのだ。

今はコロナで難しい状況だが、私は旅することだけはやめたくない。
海外がダメなら、日本のまだ見ぬ場所へ行こう。自分の住んでいる街を探検するだけでもいい。新しい発見や出会いは常にある。

「旅」はどこにいたってできるのだ。