たとえば、最初の数ページだけ使って、あとは真っ白なノートとか。
6月以降何していたのかまったくわからないスケジュール帳とか。
縛るだけ縛って出さずに積んである古紙の山とか。
値札がついたままのスポーツウェアとか。
買うだけ買った資格の参考書とか。
ほこりをかぶったギターとか。
書きかけの脚本とか。
あるいは、眉毛だけ描いて過ごしてしまう一日とか。
そんなものにいちいち象徴されてしまうように、私は、中途半端な人間である。
生き方を決めるのが少し遅く、選んだ道も、選ばなかった夢も中途半端
生き方を決めるのが遅かったから、中途半端な人間になった。
自分が大学で経済を学ぶ理由なんてない。そう気が付いたのは経済学部に進学した後だった。そもそも将来の夢のためには、この大学よりももっといい進路があったんじゃないか、とか。本当にやりたいことに気が付いたのは、もう就職活動のスタートを切ってしまった後だったし。
いつもいつも、ちょっと遅くて、選んだ道も、選ばなかった夢も、中途半端にしてしまう。
「本当はこう生きたかった」
そう気づくのは、そう生きていないからで、いつだって叶わない夢のように思えてしまう。
でも叶えたくて、足を踏み出してみて、そこにはやっぱり、自分よりもずっと前からがんばってきた人がたくさんいて。
結局、外から見ていても、中から見ていても、劣等感を覚えてしまう。
でもこれまで生きてきた道は、今更どうすることもできない。
というより、それなりにがんばってきたんだから、なかったことになんてしたくないと、正直思う。
関係ないと思っていた「中途半端」な経験が、使い方次第で私の武器に
それならば、この「中途半端さ」を、武器にしてやろうじゃないか。
自分のやりたいことを選ぶ。その道には、そればかりをずっとやってきて、そのぶん私よりもはるか先を歩いている人たちがいる。
でもその人たちは、私が今までに得てきたものを持っていない。私とその人たちとの差は、マイナスだけではなく、こうしてプラスにも存在する。まったく関係ないと思っていた経歴や技術が、使い方次第で、武器になりうる。
たとえば、クリエイティブな仕事をして暮らしていく、という夢に向かっていくとき。
一流大学で出会った友人は、法律、経理、経営なんかでわからないことがあったときに、専門的な知見をもたらしてくれるだろう。あるいは、小説を書いていて建築について知りたいとき、建築学科の友人が力を貸してくれるかもしれない。クリエイティブな仕事をしていない人が周りに多いからこそ、専門家ではなく「いち視聴者」「いち読者」としての意見をくれるかもしれない。
人脈だけではない。
有名女子校で育ったこと、一流大学で学んだという経歴は、ある種特殊な経験として、自分のクリエイティビティに独自性をもたらしているのかもしれない。
勉強が苦ではないこととか、クリティカルなものの見方なんかも、「勉強」という道を進んできたからこそ得られた技能と言えるだろう。
自分を個性的な存在にする生き方だと思うと、これからの自分にも期待
人は生まれながらに個性があるのだろうけれど、そこからさまざまな環境に身を置き育っていく中で、どんどん他の人とは別個の存在として確立していくのだと思う。選択の連続の中で、人と「同じ」ではなくなっていく。
中途半端とも言えてしまうような私の生き方は、この独自理論に沿って言えば、選択の結果、自分自身をきわめて個性的な存在にしてきた、そんな生き方である。
そう思うと、これでよかったなと思えるし、これからの自分にも期待ができる。
たとえば、最初の数ページだけ使って、あとは真っ白なノートとか。
6月以降何していたのかまったくわからないスケジュール帳とか。
縛るだけ縛って出さずに積んである古紙の山とか。
値札がついたままのスポーツウェアとか。
買うだけ買った資格の参考書とか。
ほこりをかぶったギターとか。
書きかけの脚本とか。
あるいは、眉毛だけ描いて過ごしてしまう一日とか。
ぜんぶぜんぶ、愛しく思える。