お金の使い方や金銭感覚には、人の価値観やそれまでの人生、大切にしたいものの優先順位が大きく反映されると思っている。
自分で稼ぐようになり、お金を通してその「自分の価値観」と向き合うことで、決して綺麗とは言えない側面を目の当たりにすることが増えた。

人のためのお金の使い方で、自分はケチだと思うことがある

実家は庶民的な家だった。経済的に自立してからも、ありがたいことに明日の食べるものに困るようなことは今のところない。
それでも、自分が倹約家を通り越してケチなんじゃないかと思ってしまうことが多々ある。自分へのお金の使い方もそうだし、それ以上に人のためのお金の使い方でそれを感じる。

勤務先の同期は、普段からお菓子やお茶、いろんなものを善意で分けてくれる。一度、彼女が引き受けた仕事の一部を私が手助けしたからとお昼ご飯をおごってくれたこともあった。
仕事だし、私がやることになっても何らおかしくはなかったので、私は「え、こんなんでおごってもらっちゃっていいの?」と思った。それでも正直なところ、せっかくの申し出を断ることもないと思ったので、ありがたくご馳走になった。

何かお返ししないとな、とは常々思っているけれど、今の自分の生活にそこまで余裕があるわけでもない。彼女は実家暮らしで土日はしょっちゅう県外に出かけ、私から見たら価格帯の高めのお店でよく買い物をしているので、困ってないんだろうなと思ってしまう自分がいる。
とてもいい人で仲良くしているし、何かくれるときも嫌味な感じはないので彼女のことは全く悪く思っていない。だからこそ、そんな風に思ってしまう自分が悲しい。

「わざわざ来てくれたから、出させて」。気前のいい友達はかっこいい

地方に配属になった、高校時代の友達に会いに行ったときにこんなことがあった。正確に言うと、自分が行きたいと思っていたところに友達が配属になっていたから、連絡をして会いに行ったときのことだ。

私たちの出身地からは遠く離れた県だったので、遊びに行くねといいながら本当に来たのは私だけだったようだ。何人もの友達から「行く行く詐欺」をされていた彼女は、私が会いに来たことをとても喜んでくれた。そして、お礼にとご飯代と観光代を持ってくれたのだ。

これにはびっくりした、そしてちょっと感動した。
確かに往復の交通費は決して安くはなかったし宿だって取ったけど、それは自分が行きたいと思ったからそうしただけだ。それなのに友達は「わざわざ来てくれたんだから、これくらい出させて」と言ってくれた。せっかくだからおいしいものを食べようということで、少し贅沢めのメニューにしたにも関わらず。
女友達だけど、その子らしく男前でかっこよかった。

気前よくなりたいと思う自分と、なれないと思う自分がいる

そんな風になりたいと思う自分と、いや、なれないなと思う自分がいる。どちらかというとなれない方が圧倒的優勢だ。
仮に私の友達が遠方から遊びにきてくれたとしても、ご飯をおごれるかといったら全然自信がない。かろうじて、まだ学生の後輩相手には、車を出してくれたお礼と言いつつも、正直なところでは見栄を張ってお茶代くらいだが出したこともある。
年齢的に、これから友達の結婚や出産が増えてくる。そして、心からお祝いしたい相手とそうでない人も必ず出てくると思う。仲間内でひとり〇万ずつ出そう、みたいな話になった時私はどう思うのだろうか。出ていくお金に負の感情を乗せるべきではないと言うし、私も頭ではわかっているのだが、心でそう思えないところはありそうな感じがしてしまう。

とても人には話せないので、こんな私の考え方がどう思われるかはわからない。ドケチだと思う人もいれば、そんなもんだろうと言ってくれる人もいるかもしれない。
もう少し気前のいい人になりたいという思いがないわけではないが、この先お金に余裕ができたとしても、そうなれる自信は今のところない。