「女の子らしさ」が欠けた小学校時代は、ハードなセクハラから始まった

小さい頃の私は、わかりやすい「女の子らしさ」に欠けていた。アトピーで首筋に髪があるとちくちくして掻いてしまうから、髪の毛は「男の子のように」短く刈り上げられ、「女の子らしい」スカートを履くことを断固拒否し、ポケモンのリザードンのTシャツがお気に入り。
保育園では小さい頃からそうなので、周りからいじられることもなかったが、そんな見た目が男の子の私が小学校に入学すると、手荒い洗礼を浴びた。

あれは入学式の次の日、初めて学童に行ったときのことだった。
隣のクラスのやんちゃで有名な男の子が、何人か引き連れて私に近づいてくると、私の顔、身なり、体形をじろりと見まわし、「こいつ本当に女なのかよ~!まじで男みて~!」と騒ぎ始めた。そして「ちんこ本当にないのかよ?」と私の股間を揉みしだいた。
今まで遭遇したことのない新手の暴力に、私はわんわんと泣いた。学童の先生が何事かと慌てて飛んできて、大騒ぎとなった。
このように「見た目」という分かりやすい「女の子らしさ」に欠けた私の小学生時代は、ハードなセクハラから始まった。

学芸会のオーディション。私史上最高にわきまえていない瞬間だった

「女の子らしさ」に欠けていたのは見た目だけではなかった。
「女の子」は穏やかで大人しくて暴力的ではなくて静か、自己主張をしない。私と言えば、少々内気なところはあるものの、声がでかくて授業中も積極的に発言し、からかってくる男の子には鉄拳制裁、自己主張の塊であった。
「男勝り」という言葉は、「女のくせに」「女なのに」男にもかなわないほど気丈で勝気でしっかりしている、という「名誉男」という女への差別意識を内包している言葉だが、あえて誤解を恐れずに言うならば、小学校の私は「男勝り」な少女だった。

そんな私の一面が一番現れたのが、小学5年生のときの学芸会であった。私たちは「アンクルトムの小屋」というアメリカの奴隷制度をテーマにした劇を演じることとなった。
内気なくせに目立ちたがり屋で、ミュージカルを習っていたり演劇のワークショップに参加したことのある私は、主役級の役に立候補しようと意気揚々としていた。

レグリィは、主人公トムが働く奴隷農場の主。優しくて誰からも愛されるトムを、暴虐のあまり殴り殺してしまう、という役柄だった。そしてレグリィは男であった。
この役を上手く演じないと、劇全体が締まらなくなる重要処だった。一見残虐ではあるが、この時代の奴隷農場の事情を反映する複雑な役である。そして何より台詞が多い。
私は男役のレグリィに立候補することに決めた。

レグリィにはもう一人立候補者がいた。彼は小学5年生にして165センチある体格の良いガキ大将で、当時135センチしかなかった私より見た目はよほど適任であった。
オーディションが始まり、指定された台詞と動きの演技をガキ大将と交互に演じた。演技が終わり、クラスメイトの挙手による投票が終わると……なんと私が合格していた!

先生を見ると苦々しげな笑みを浮かべていて、「僕は前の学校でもアンクルトムの小屋をやって、そのときもレグリィは女の子が演じたんだけど、まよちゃんと違ってその子は160センチある体格良い子だったんだよねえ」と呟いていた。
ああ先生は、ガキ大将に演じてほしかったのだと、私は一瞬で自分が「わきまえていなかった」ことを悟った。私史上最高にわきまえていない瞬間だった。

男らしさも女らしさも関係ない。自分の人生の主役は、自分なのだ

その先生の一言がとても悔しく、女でも、小さくても奴隷農場主を演じることができるのだと証明したくて、学芸会本番まで私の努力が始まった。
その結果は大成功。「まよちゃん凄かった、宝塚いけるんじゃない?」と友人の母親がほめてくれた。
お世辞だったろうな、と今では思いつつも、努力の成功体験として私の大切な思い出の中に格納されている。

今、またあのオーディションのあの日に戻れるならば、私はまた主役級に立候補できるだろうか。男とか女とかそういうことを全く気にせず、ただ自分がやりたいことを主張しそれを周りに認めさせることができるだろうか。
小学生時代と違い、今の私の髪の毛はロングでパーマをかけているし、私服だってスカートを履くし、リザードンのTシャツは着ていない。

見た目の分かりやすい「女らしさ」を手に入れて、世の中の公式に見た目を当てはめるのは、それはそれで快適だ。
今の私にわきまえずに同じことができるだろうか。私は自分に問うてみる。
できる、いややってみせる、と心が言う。
なぜなら、男とか女とからしさとか関係なく、いつだって自分の人生という劇の主役は、自分なのだから。