大勢の人と同じように、私も母親から多大な影響を受けて育ちました。

私の母は家事は苦手で、寡黙な本好きで、博識な人でした。女手一つで子供5人を育てあげた肝っ玉母さんではありましたが、恐らく世間の一般的な母像とは離れていたと思います。
「うちは貧乏だけど、勉強することを諦めちゃいけない、大学にだって行けるよ」
と私に言ったことがありました。それからしばらく後に母は亡くなり、私は高校をドロップアウトし大学進学とは程遠い人生を歩みましたが、それでも学ぶことは皆が平等に持っている権利だと思っていました。
なので大人になって、息子は大学に行かせて娘には無意味だからと行かせない家庭があることを知り、驚きました。

わきまえているとかいないとか、カテゴライズされ、精神を削られる

私達の世界では自分の頭で考え、その意志を言葉で紡ぐと、"わきまえない女"と呼ばれることがあると知りました。
学校で習った"皆が平等に持っている権利"を行使しようとすると、"わきまえない女"と呼ばれることがあるということも最近気付きました。
なんと馬鹿馬鹿しいことでしょう。そんな馬鹿馬鹿しいことに、私達の精神は確実に削られていきます。

私は自分がわきまえているとかいないとか考えたことはありませんが、人並みに化粧もファッションも好きですし、夫に手料理を作って喜ばれたら嬉しいですし、客が来たら普通にお茶を淹れます。それで誰かは"わきまえている"と喜び、誰かは"わきまえている"と罵ります。
私は、ああ、そうですか、と思い、そして精神を削られます。

私は自分がわきまえているとかいないとか考えたことはありませんが、嫌なことは嫌と言う性格ですし、ディベートの場では意見は積極的に伝えたいですし、いつでも愛想よくは振るまえませんが、それで誰かは"わきまえない"と喜び、誰かは"わきまえない"と罵ります。
それも私は、ああ、そうですか、と思い、また精神を削られます。

誰が私を"わきまえている"か"わきまえていない"かにカテゴライズ出来るでしょうか。それをして何が見えるのでしょうか。でもきっと、今は重要なことなのでしょう。

私も誰かも、自分と誰かに勝手な理想を押し付け、苦しめている

"世間の一般的な母像"とはなんでしょうか。なぜ皆違う母親に育てられたのに共通の"母像"を持っているのでしょうか。
恐らく"わきまえた女"達が作り上げた実像でもあり、"わきまえた子供"達が作りあげた虚像でもあるでしょう。
私はその"母像"からかけ離れた母親に育てられましたが、私もまた"わきまえた子供"の1人で、母が死んだ今も、母と"母像"を比較してしているのです。そして娘を産んだ今、私自身もその"母像"に苦しめられています。

期待されることは喜ばしいことでもあります。しかし、理想を押しつけられるのは息苦しいです。
この2つは生活の中で同じような顔をして現れ、私達を困惑させます。社会は、会社は、あの人は、隙あらば私達をカテゴライズして、勝手な理想を押し付けてきます。「期待している」と言わんばかりに。
そして私自身も私を、誰かを、どこかにカテゴライズして、期待し、期待にそぐわないと逆上し、自分を、誰かを、苦しめています。本当に馬鹿馬鹿しいことです。

私は"わきまえる女"ではないし、"わきまえない女"でもないです。誰かの理想を叶えるために、私は存在していません。私は私の理想を叶えます。それは皆同じことです。私はそれをわきまえて、生きていきます。