わたしは小さい頃から「変わっているね」「個性的だね」と褒められてきた。
“変わっているね”や“個性的だね”を誉め言葉として受け取っている時点で世間一般とは感覚がズレているのかもしれない。

自分の気持ちに嘘をついて、やりたくもないことをやる方が怖い

思い返せば小学生の頃、たしか6年生の給食時間だった。クラスのガキ大将みたいな男子がとある遊びを思いつき、クラスみんなに今からそれをするぞ! と威張っていた。ガキ大将の周りにいつもいる腰巾着男子やぶりっ子女子たちは「やるやる!!」となぜかやる気満々。
わたしにはそのガキ大将が考えたという遊びの楽しさも意味もわからず「わたしはやらない」と断った。

まさか自分が考えた遊びを断られるなんて思ってもいなかったガキ大将は、「なんだと!」と少しご立腹。でもわたしは「面白いと思えないからやらない」の一点張り。
今まで自分に逆らう人が周りにいなかったのか、ガキ大将は「俺の言うことを聞けないなら、今日からお前をいじめる」などと言い出した。

わたしもたかだか面白くもない遊びを断ったくらいでなぜいじめられないといけないのか、腹が立ってきて「いじめたいならいじめれば? わたしはやらない!」と啖呵を切った。
今考えると自分でも笑えてしまうくらいわたしも頑固だ。

結局ガキ大将にいじめられることはなく、なんだかんだ月日が経てば仲良くなっていた。
当時のクラスメイトは、あのガキ大将に逆らうなんて怖くなかったの? 変わってるね……と言っていたが、私に言わせれば、自分の気持ちに嘘をついてやりたくもないことをやる方が怖いと思った。
子どもの頃から自分の本当の気持ちに嘘をつきたくないと心のどこかで思っていたのかもしれない。

自分自身に対してつく嘘が許せない性格なのだと思う

高校生のときもそう。クラスの女子たちはなぜかグループというものを作りたがり、毎日同じメンバーで休憩時間を過ごしてはお弁当を一緒に食べ、そのグループのリーダー的存在に嫌われないように媚を売ったり、わたしはそんな彼女たちを見ては「しんどくね?」と内心思っていた。

わたしはどうだったかというと、一つのグループに入れられてしまうのが嫌で、休み時間ごとにいろんなグループをはしごしていた。普段あまり喋らないようなクラスメイトとも席替えで席が前後になったことがきっかけで、好きなミュージシャンが同じということが発覚し、休み時間中その話題で盛り上がったりしたものだ。

そんな風にして歩んできた私の人生を振り返ると、やはり自分自身に対してつく嘘が許せない性格なのだと思う。
もちろん、社会人になり建前や、愛想などといった武器も身に着けたが、それは戦場(会社)にいるわたしが武装しているものであって、プライベートになるとすべての武装をほどきたくなる。

 “ここだけは譲れないポイント”を自分の感性として大切にしたい

わたしの中で、この武装を全てほどいた素の姿を見せることが出来る人が、友人でも恋人でも一番居心地の良い心の扉をフルオープンすることのできる相手なのだ。
逆を言えば、武装を少しでも残して接している相手には、私の心は完全には開いていないといえるだろう。

かと言って、人付き合いが嫌いとかそういうわけではない。誰かと面白さや楽しさを共有するのは大好きだ。ただ、自分の中で、ここだけは譲れないというポイントがあり、そこを超えたときわたしはその人間関係を無理して続けているな、本当の自分じゃないなと判断する。
そして別に相手を責めるわけでもなく、自分自身にその関係を無理してまで続けたいかと問いかけるのだ。

こんな風に生きているので、ノリが悪いと思われることもあるし、SNSでの元クラスメイトたちの集合写真などの投稿に、いいなと少し寂しさを覚える瞬間もある。

でもわたしは、この“ここだけは譲れないポイント”を自分の感性としてこれからも大切にしたいと思っている。