突然、友人のバースデーパーティーに招待された。
いきなり誘われたものだからプレゼントなんて何も用意してないけど、花くらいは渡したい。迎えがくるのは30分後。外は大雨で、私は車をもっていなかった。
そこで近所に住んでる友人に頼んで、車で近所のスーパーまで乗せてもらった。冷蔵庫に並べられた花を1つ買って、なんとか間に合った。
このとき私は19歳で独り暮らし、アメリカの大学に通っていた時の話。

アメリカでひとり暮らしをしていた時は、周りに頼ることも多くて

人に頼ると言っても色々ある。誰にどんな状況で頼るのか。
この時、びしょぬれになりながら、雨の中、死に物狂いで自転車をかっ飛ばして花を買いにいけば、近所の友人に頼らなくても間に合ったかもしれない。もしかしたら。
けど私は彼女に乗せてってくれるよう頼んだ。自分には車も時間もないんだと認めるくらい訳ない。

別の日、大学の授業で出された課題の意味が、さっぱり分からなかった私は、大学の先輩にLINEで、メッセージを送って、どうすればいいのか聞いた。普段はあんまり連絡なんてとらない仲だけれど、仕方ない。

この時、先輩を頼るのが嫌なら、なにがなんでも独りで課題を成し遂げ、提出すれば良かっただけの話だ。評価がどうなるかはともかく。けど、私は先輩に助けを求めた。
まだ来て一年もたってない自分が、出された課題のことで先輩を頼るのは、なにも問題はない。

その数ヵ月後、私は異常な背中の痛みに悩まされていた。授業中も痛くて集中できないし、横になっても痛くて、夜は全然眠れなかった。痛み止めと湿布で何日も様子をみていたけど、ある日どうしても耐えられなくなって、仲の良かった女性とその旦那さんに話して病院につれていってもらった。
迷惑かもしれないとか考える以前に、痛さと不安が先にたって、電話で事情を話すとすぐに来てくれた。

彼らを頼る事に決めたのは、それ以外なにも思い付かなかったから。家族も知り合いもいなかった異国の地で、これ以上独りで耐えられないと感じたからだと思う。

普通の人ができることで頼るのは、出来なくなった自分を認めることで

そして今、私は日本で家族とすんでいる。
10時間に及ぶ手術の後、数々の治療を経て、車椅子で生活するように。
ちなみに治療はまだ終わっていない。脊髄腫瘍は私に歩くことも大学復帰も許してくれなかった。
日々の生活のなかで、ここまで誰かに頼らないといけなかったことは今までない。けれど、だからこそかもしれないが、出来るだけ自分でやりたい、人に頼りたくないと以前より思ってしまう自分がいる。

棚にあるアルミホイルを取ろうとして、シンクにつかまって車椅子から立ち上がった。
ひとこと誰かに頼めばすむ話なのに、それに、おそらくその方が早いのに。足が滑って尻餅をついた時に、足の親指の爪が半分くらいめくれた。

人に頼ると言っても色々ある。
車に乗せてほしい、大学の課題を手伝ってほしい、そういう頼みは、ある程度の仲なら気兼ね無くできる。車がない自分。課題に手助けがいる自分。
そういう自分を認めるのは辛くない。誰にでも起こりうる。たとえ些細なことでも、切実に誰かを頼ることはある。助けが必要なことは良くあることだ。

なのに、高いところにあるものに手が届かない、急な坂道は自力でのぼれない。
以前は普通に出来ていた、そして、周りの人なら普通に出来ることで頼るのは簡単じゃない。
出来なくなった自分を認めるのは辛い。

頼ることは、弱みを認めること。でも意外と、悪くないのかもしれない

車を出してもらったり、病院につれていってもらうことに比べれば、はるかに大したことない頼みでも、それを必要とする自分を受け入れられない。
頼るとは結局、自分の弱点を認め、なおかつそれを相手に知られる事が条件となる。そのどちらか1つでも受け入れられないと、人は誰かに頼ることができなくなる。

私は日々、人に頼りきって生きている。
自分ではどうしようもない事でも、相手にとっては容易い事かもしれない。
それって、不公平な感じがする。
あ、友達が「この英語の文、日本語に訳してほしいんだけど」だって。
人に頼るのは意外と悪くないかもしれない、
誰かに頼られるのって、そんなに悪くない。