2種類の大人について考えたら、自分の未熟さに向き合っていた

大人ってなんだろう。
20歳を超えたら新成人としてお祝いされ、お酒を飲めるようになるなどひとつの節目を迎える。
たしかにそれは、社会的な仕組みの中で大きな節目なのかもしれない。けれど20歳を超えたからといって必ずしも自己の内面が変わるわけではない。
子どもの頃は、親や先生が絶対的に正しい存在に見えていたし、
"大人"になることとは卒業や受験みたいにゴールがあるもので、いつしか完成されるものだと思っていた。
でも今なら自信持って言える。
年齢なんてひとつの目安でしかない。そして大人になったからといって完成されるものでもないと。
大人には2つあると思う。
完成された大人と未完成な大人。
厳密にいうと、「完成されたと思っている大人」と「永遠に未完成だと思っている大人」がいるのだとおもう。
このふたつの違いはなんだろう?
人によって環境は違えど、多くの人が学校という枠組みの中で学び卒業し社会に出て行く。
そこから先はより一層本人次第の人生が始まっていく。
働きながらも好奇心や向上心忘れず学び続ける人。
仕事の目的がお金を稼ぐことにしかなく、考えることをやめる人。
毎日の積み重ねがその人をつくる。
1日ではほんの誤差に見えるけれど、積み上げると交わることがないくらいの差になってしまう気がする。
そしてそんな差があることにも気づけないのではないかとさえ感じる。
未完成だと思い学び続けている尊敬する大人にたくさん出会った。
正直出会いすぎていると思うくらい出会いに恵まれた。
未完成だと思っているひとは、年下の人への接し方が全然違う。
謙虚さがあるからこそ、誰からも学ぼうとする姿勢がある気がする。
一方で完成したと思っている人は、目に見えるものを強く信じている気がする。
役職、権威、お金など。"子ども"や"年下"から学ぶことは特にないから少しばかり偉そうだ。
あれなんだか感情的な私。
だって、人間ってそんなに差があるものでもないと思う。
でも二極化してるように映る私のメガネ。その奥の奥の根本にある違いはなんだろう。
これをぐるぐる考えていると、社会に目を向けて考えていたはずが、私の内面と向き合うこととなった。
ああ、私の未熟さなのかもしれない、と。
そんなふうにどこかで好きな大人と嫌いな大人をジャッジしているのだと思う。
それは私のものさしであるし素敵な人に恵まれているからこそ誇りでもある。
だから否定をするつもりはない。
ただ私が未熟なんだという指標にもなると思うのだ。
新卒で入社した会社の経営者の方が「人と関係を築き直せることは人として素晴らしい」と言っていた。
私はその言葉の意味が当時はよくわからなかった。
でも今は、人と関係性をやり直せるということは、人を許すことがないとできないことからなのかなと思う。
憎くて憎くて許せなかった人がいる。
きっと誰だっている。
そんなひとをどう思うか。
いますぐにできなくていい。
いつか許すことができたのなら、それは年齢や肩書きなど関係なく素晴らしいことであり、大人なのだと私は思う。
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