わたしは「いつも明るくて、悩みがなさそうでいいな」と言われることがある。「なににも動じず、肝が据わっていて羨ましい」とも。
でも、そんなことは全くもってない。わたしは常にビビりの小心者で、ネガティブで、真面目だけが取り柄の全力空回り人間だ。だけど、そう言われたらその人から見える「わたし」を作り上げてしまう、というわたしの悪い癖がある。
そうしたほうがコミュニケーションは円滑に進むし、わたし自身も楽な気になっていた。

人から嫌われたくないから、いろんな「わたし」を作り上げて演じた

自分の短所なんて、考えだしたらキリがないことはわかってる。だけどやっぱりわたしは、自分の足りていない部分にばかり目が行ってしまう。
だから現に、誰かの思う「わたし」に少しでも近づけるように、日々「みんなの前では明るく場を盛り上げるわたし」や「誰に対しても動じずどしんと構えたわたし」というキャラクターをその時々に応じて演じてしまっている。
コミュニケーションが円滑に進む、なんてのは表面的な言い訳(わけ)で、実際は本当の「わたし」を出したときに、拒絶されてしまうことを恐れているから、「わたし」を演じてしまっているのかもしれない。

人から嫌われたくない、そのためにいろんな「わたし」を作り上げて、この人はテンションが高いから「わたし」も合わせてノリノリな人でいよう、この人は人を小ばかにする癖があるから「わたし」があえてばかな役回りに就こう。そんな風に日々をこなしてきたつもりだった。

でも、人に合わせた「わたし」が多すぎて、本当の自分がわからない

だけど最近、いろんな「わたし」が存在しすぎて、どれが本当の「わたし」なのかわからなくなってしまった。もう限界が来てしまった。

誰かに求められているわけじゃない、空回りなことも本当はよくわかってる。だけどもう戻れないのだ、そんなところにわたしは到達してしまった。
言葉を連ねながら、誰かに助けてほしい、という自分の感情には気づくことが出来た。だけど、自分でも気づけていない「わたし」を誰が救えるのだろうか、手を差し伸べる先の相手に「わたし」はどんな「わたし」でいたのかが、もう思い出せないのだ。

他人に合わせて「わたし」を演じている自分がご自愛できるか?

コロナが蔓延したこのご時世、末筆には「ご自愛」という言葉が並ぶようになった。例に漏れず、わたしも取引先とのメールの末筆には「どうぞ時節柄ご自愛くださいますようお願い申し上げます」というテンプレートを、ちゃんとした意味も理解していないままつけている。
どうやら「ご自愛」は、「自分を大切にする」「自身の健康状態に気を付ける」等という意味らしい。

「自分を大切にする」って何だろうと思う。「自」分を「愛」することが、「ご自愛」ならば、出会う人それぞれに合わせた「わたし」を演じることは、果たして「自」分を「愛」せていることになるのだろうか。「自分を大切に」できていることになるのだろうか。
それすらもわかっていないこんなわたしから「ご自愛ください」をもらう人の気持ちを、ちゃんと考えられているのだろうか。
わたしは、わたしを「ご自愛」するのにもう少し時間がかかりそうだ。