普段何気なく立ち寄るスーパーの入り口にも、たくさんのチョコレートが立ち並ぶ季節になった。その中でも多く見られるのは、キャラクターがプリントされた包装紙や缶のもの。
それらを見る度に、私はとある苦い経験を思い出す。

何人に渡し、何人からもらうだろうか。私の頭を悩ませる「友チョコ」

バレンタインに配るチョコレートには、主に「友チョコ・義理チョコ・本命チョコ」の3種類があるが、学生時代私の頭を悩ませていたのは「友チョコ」であった。
これを渡すためには、まず何人がチョコレートをくれるだろうか、という見積もりから始めなくてはならない。
個人的に一番やってはいけないことは、用意したお菓子が渡してくれた人数分足りないことだ。当日、相手が渡しに来てくれたにもかかわらず、自分の用意が足りてなかった後のやり取りは、どう転んでも気まずい。ましてや、その相手の子が、私がチョコレートをほかの子には渡していたと知れば、きまりの悪さは後を引く。
だから私は、持ち前の心配性も相まって、予想よりも少し多めにお菓子を用意するようにしていた。

まだ小学校4年生だった頃のバレンタインの季節にも、私はその性質を発揮していた。スーパーの特設コーナーで「そんなにいるの?」という母の問いかけをよそに、○○ちゃんと△△ちゃん、□□ちゃんは絶対に渡してくれる、でも、もしかしたらあの子も渡してくれるかもしれない、と箱に入った1つ300円程のクランチチョコレートを買い物かごに入れていた。
結局9つ買ったように思う。合計で2700円。お小遣いを使った記憶はないから、きっと母が出してくれたのだろう。

予想に反してチョコは余り、公園で寒さに凍えながらひと箱食べる

バレンタインデー当日、私は様々な種類のお菓子を食べられるのでは、と内心浮かれながら学校へ向かった。校内にお菓子を持ち込むことは禁止されていたため、放課後遊ぶ約束をしてそこで持ち寄ったものを交換するというのが、その日のプランだった。
「○○ちゃん放課後遊ぼう!私、チョコレート渡したい」
「ごめん、今日塾にいかなきゃいけない」

そうか、そういうこともあるよなと思いながら、その後も何人かに声をかけたが、結局当日渡すことができたのは、たったの3人だった。
私は、余らせた6個のチョコレートを抱え、近所の友達の家をまわったが、留守が多く結局2箱余らせてしまい、帰り道の公園で寒さに凍えながらひと箱開けて食べることにした。
今考えれば、家に持って帰って別の日に渡せばいいのだが、当時の私としては、買ってもらったのにも関わらず渡しきれなかったことが、恥ずかしいというか、悔しいというか、とにかく嫌だったのだと思う。

公園のフェンスにもたれかかって、改めて箱を眺めると、ピンクや赤のハートマークで彩られたパッケージの中心で、有名キャラクターがこちらに向かって微笑みかけている。気温も相まってひと箱食べ終わるころにはやけに切なくなってしまい、甘ったるい味を頬に残したまま家に帰った。

微妙な思い出はたくさんあるけど、バレンタインのことは嫌いにならない

このこと以外にも、私にはバレンタインにまつわる微妙な思い出がたくさんある。
小学校1年生の頃には、お菓子を交換した次の日に親友と大喧嘩してしまい「渡したものを吐いて返せ」と言われたし、中学生の頃は、友達からもらったホットケーキのロリポップが全部生焼けだった。そして高校生の頃は、クラスと部活の女子全員に配っても手作りのチョコレートが半分余るという、小学生の頃とは別バージョンの失敗をした。

しかしながら、それでもバレンタインのことは嫌いにならない。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があるが、私の場合「甘さ忘れる」である。
あの日、うつむきながら歩いたときの気だるい甘さなんて、とっくの昔に忘れてしまっていて、今日もチョコレートを買いにコンビニへ向かう。あまさはおいしいのだ。