私はまだ子どもかな。もう大人かな。そう問う前に周りの大人を観察してみよう。
子どもの頃の私にとって「大人」とは、絶対的な存在で正義だった
距離感と言われてふと思いついたのは店長だ。私と歳が離れているし、社会に出て大きな責任を持って働いているのだから、完全に私の思う「大人」だ。
自分で言うのも恥ずかしいけれど、私は中学生くらいまで先生の声を素直に聞き入れるいわゆる「いい子」であった。
幼稚園のころ、友達のお母さん方や先生に挨拶ができなくて、よく母に注意されてたっけ。好奇心で動いてよくやんちゃをしてたあのころは、こっぴどく怒られてたっけ。
母の教えはいつも正しかった。私のことを怒るときはどうしてそれがいけないことなのか分かるように説明してくれたし、「そりゃあ怒るなあ」と思うようなことばかり当時の私はしていたのだ。俗に言う、いたずらっ子だった。
今考えると、私は母だけでなく学校の先生などの「大人」にも恵まれていた。子どもの頃の私にとって「大人」とは絶対的な存在だった。正義だったのだ。
私は中学生のころからだんだん怒られることが減っていき、やがて自分の考えや信念を持つようになっていった。
自分より礼儀が定着していない大人、理不尽なことを言い出す大人、我先にと行動する大人。一方で、子どもの面倒見がいい大人、周りに心を配る大人、真摯に仕事に向き合う大人。自分の価値観を持ち、良いも悪いも見えるようになってきて、いつの間にか大事なことに気が付いていた。
「大人」という肩書きを持っているだけで、大人もたった1人の人間
それは、大人は「大人」という肩書きを持っているだけで子どもと同じようにただの、たった1人の人間である、ということだ。
知らなかったわけではないけれど、意識して実感するようになった。大人も子どもも多種多様だから「大人」だからといって買いかぶるべきではないし、「子ども」だからといって見くびるべきではないと思う。
以前にゼミの教授が「私も皆さんから学ぶことが多くある。だから皆さんとは先生と生徒という関係ではなく1人の対等な人間として接したい」と言ってくれた。私はこの時、教授の謙虚な姿勢に感動し、私自身年齢にとらわれて肩書で人を評価することなく誠実に接して生きたいと強く思った。
そしていつの間にか、母も私を一人前の人間として接してくれていたことに気が付いた。仕事での悩みを打ち明けてくれたり、服装の相談をするようになったりしていた。そして私もそんな母に対して「こうしたら良くなるんじゃない」「私だったらこうするよ」などとアドバイスなんてしていたのだ。
お互いに距離感が分からず、子どもの私も大人な店長も一緒なんだ
話を最初に戻そう。
私はバイトの社員さんと緊張してうまく話せない。店長は今一番仲良くなりたい人だ。仕事でミスをしてしまう私に対して怒っているのかと思えば、クリスマスのシフトの時に好きだと言っていたモンブランを買ってきてくれた。たまに真顔で冗談を言ってくることもあるし、ネイルに気付いて褒めてくれた。
と思えば、次の日の出勤のときには無口だから怒っているんじゃないかといつものようにおびえてしまう。つかめないから、その距離感が難しい。
だから店長と仕事をするスペースが被ったとき、うまく話せないからその場から静かにフェードアウトすることがある。怒っているかと思えば、優しいことを言ってくる。きっと、あの大人な店長も私との距離感が分からないのだ。どのように接していいのか悩んでいるに違いない。
仲良くなりたいけど私が逃げるから、女子の「ヨロコビポイント」を押さえて好感度を上げようとしているのだ。子どもの私も大人な店長も、一緒なのかもしれない。
自分を子どもと言ったけれど、年齢的にはもう大人であるが精神的には全く追い付いていない。きっとみんなそうなのだろう。いつの間にか年齢を重ねていた、だからコドモ大人がいるしオトナ子どももいるのだ。
距離感は難しい。だけど子どもだとか大人だとかにとらわれず、人を1人の人間として見て接していけたらいいと思う。鏡をのぞけばほら、20歳の私だって口の周りに天ぷらのカスをつけているではないか。