耳が聞こえなくなった私から、助けを求める誰かへの「ありがとう」

例えばこんな話。
私が中学、高校の時、ストレスがたたって体が拒否反応を起こし、耳が聞こえなくなり、声が出なくなったことがある。
学校にいけない私を家族や友達など、たくさんの人が心配し、気にかけてくれた。
特に、ほぼずっと時間を共にした母は、言葉通り私の耳となり声となり、支えてくれた。
会話するときには口唇術や筆談。
スムーズにいかないコミュニケーションに苛立つことも多かった。
みんなが笑っていても、その理由が分からない。気を使わせてしまうことも嫌だった。
後ろから話しかけられても気付けない恐怖もあった。
家の中では守られているけれど、外に出ると自分を守るものが一気になくなる。
特に怖かったのは車が近づいてくるときだ。
最近の車はエンジン音がとても静かで、振動もほぼないから、すぐ横の視界に入ってくるまで、そこに車の存在があったことすらわからない。
そしてもう一つ。
耳が聞こえないこと、声が出ないことは、見た目からは分からないのである。
イヤホンをつけていて聴こえていない人なら、その理由は一目瞭然。
しかし、素体のまま歩いている私は、その存在に気付いているものとして扱われているというところが難点なのだ。
幸い私の症状は長くても半年ほど、そこまで長く続くことはなかった。
それでも、生活には支障をきたした。
学校の授業は何を言っているのかわからないし、アルバイトは休まなければならない。
書いて、そしてそれを読んで。ワンテンポ遅れてしまうから、自分の意見は即座に伝えられない。
一人で外に出ることは危険を伴う社会のカタチ。
でも、幸いにも私には頼れる存在が常にいた。
困ったら、手を差し伸べてくれる人がいた。
ただ話を聞いて、無償の愛をささげてくれる人がいた。
住む家はあるし、温かいご飯もある。
だからこそ這い上がって来られたのだと思うし、心の底から感謝をしている。
全員が私の気持ちを理解してくれているかと言えば、そんなことはない。
ただ、そこに善と悪が存在するわけではない。
それは、誰のせいでもなく、実体験として経験値を持っている人が少ないからだ。
真にわからない、知らない、という人は実はいないのではないかと私は思う。
知ろう、とこちらに気持ちを傾けてくれる人、知るチャンスを自ら作ろうとした人。
知るチャンスがたまたまあった人。
今回のケースだけではない。
世の中のすべてを知っている人なんていないが、知ろうとすることは誰にでもできる素晴らしい力だ。
だから私は本を読み、人の話を聞き、外に出て、教えを乞う。経験を積みたいと望む。
世界中には、様々な理由で今も困っている人がいる。
自分にできることは何だろう。
手を差し伸べることは、そこで誰かの笑顔を少しでも見ることはできるだろうか。
自分があの時そうしてもらったように、誰かを切実に頼りたい誰かを、支えられるだろうか。
たった一つ、わかること。
“ありがとう”は“ありがとう”を生み出してくれる。
自分が本当に困ったとき、本当に親身になってくれた人へのありがとうは、ただの言葉ではとどまらない。
色が付き、香りを纏い、音を奏でる。
そしてそれは次の誰かの元へと、旅路を進める。
そんなに急がなくてもいいのかもしれない。
とてもシンプルなことで、誰かが困っているなら、手を差し伸べよう。
そして、一緒に考えよう。
どうしたらいいのだろう、と話をとことん聞こう。
何か大きな変化や解決を求めるのでも、見返りを求めるわけでもなく。
本気のありがとうは、きっと、どちらの世界も彩ってくれるはずだ。
この文章を読んだあなたが、どのように感じたか、私にはわからない。
とてもつまらなかっただろうか。何か少しでも、響くことはあったであろうか。
いずれにしても、私はありがとう、と伝えたい。
そして、あなたの助けを求めている人がもしもいるのなら、ぜひ、話を聞いてみてほしい。
私のありがとうが、いつかあなたのありがとうと出会えることを願って。
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