2021年夏、私に「限界」が訪れた。
ごはんが食べられない、味もよくわからない。18時に自宅で仕事が終わったら、そのまま布団をしいて寝てしまう。

「疲れているのか」と言われても、仕事にも集中できていない。パソコンに向かい、文字を打った瞬間「なにを書いて提出しても、上司からつき返されるんじゃないか」と考えてしまう。そしてほんの少し注意されただけで、泣いてしまうことがたびたびある。

自分を否定する日々に訪れた限界。牛丼の味が分からなくなった

春から新しい業務が増え、今までのやり方が、すべて通用しなくなった。
人見知りで話すのが苦手なのに、初対面の人と話さなければいけない場面が増えた。もちろん、うまくできない。

萎縮した私は、慣れたはずの上司や社員とも、うまく話せなくなっていた。
「もう少し、自分の意見、出せないかな」
上司にそう言われた。その指摘は、人見知りで話すのが苦手な私が、人生で何度もぶつかってきた壁だ。
仕事に関する話だったとしても、自分自身を否定されていると感じたし、「今のままじゃダメだ」と、自分でも自分を否定した。

そして「限界」がやってきた。
牛丼の味が感じられなくて、定食用のバーベキューソースをかけて食べはじめた8月、「このままだと私は死ぬんじゃないか?」と思い、心の病院を受診した。「限界」に病名はもらえなかったが、気持ちを落ち着かせる薬はもらえて、今も通院している。

生きづらさから限界を感じても、母のことを考えると相談できなかった

人見知りで話すのが苦手な私は、ほかにもたくさん生きづらさを抱えていて、何度か「限界」に近づいた経験がある。

友だちづきあいも下手だった私は、母を頼ろうとした。だけどそれが、とてつもなく申し訳ないと思った。
友だちとうまくつきあえない。いじわるを言われても、なにも返せない。学校に行きたくない。就職活動がうまくいかない。周囲からの心ない言葉に、「ほっといて」とすら返せない。
「生きづらくて仕方ない」なんて言ったら、母は悲しむだろうか。要領の悪い私に、失望してしまうだろうか。
こんな私なんて、消えてしまった方が、母は楽になるだろうか。

結局私は、「死にたい」しか言葉にできなかった。当然母は「どうしてそんなこと言うの」と、怒ったような、悲しいような顔をした。
母は優しい人だし、仲はいい。だけど私の生きづらさに対し、どこかそっけなさを感じる。「メンタルクリニックに行きはじめた」と言ったときも、反応はうすかった。

「帰ってくる理由なんて、ごはん食べさせろでいい」と母は言った

コロナのワクチンを打ったあと、「副反応で高熱がでたとき、ひとりだと危ないから」と、母から実家に帰ることを勧められた。
熱とだるさのなか、起きると母が「なにかいる?」と言ってくれる。なにもしなくても、あたたかくておいしいごはんを出してもらえる。
すごく幸せだったし、弱っていた私の心に、あたたかさが染みわたった。「私には、このあたたかさが必要なんだろうな」と思った。

私は母に、自分の「限界」について説明した。ごはんが食べられず、味もわからなかったこと。ごはんを食べず、寝てしまった日もあったこと。
そして、母に言った。
「今度しんどくなったら、こうやってまた、帰ってきてもいい?」
大人になって家を出たのに、こんなふうに弱音を吐いてしまうなんて、恥だと思った。母はまた、怒ったような、悲しいような顔をしていた。
「帰ってくる理由なんて、『ごはん食べさせろ』だけでいいのよ。ここはあなたの家なんだから」

本心は「帰ってきていい?」の言葉に乗せて母に伝えられた

個人的にメンタルヘルスの勉強をする中で知ったが、生きものは本来、自分の身を守るようにできている。そのため危険に遭遇すると「ここから逃げなくては」と思う。
けれど「ここから逃げられない」と思い込んでしまうと、どうやら「逃げるために死のう」という考えに至るらしい。
私が漠然と抱えていた「死にたい」は、「生きていたいが、どうしたらいいかわからない」というメッセージなのかもしれない。

「帰ってきていい?」と言った私は、「生きたい、けれどどうしたらいいかわからない」と、母に伝えたかったのだと思う。
そして母は「帰ってくる理由なんて、『ごはん食べさせろ』だけでいい」「だから生きていて」と言いたかったんじゃないだろうか。

今日も仕事の要領は悪いし、このエッセイを書きながらも、涙を流してしまう不安定さだ。だけど私は病院に通って薬を飲み、時おり実家に帰りつつ、なんとか生きている。