私は本を読むことが嫌いだった。
文字を読むことが遅く、時間だけ無駄にとってしまい、読んだ後もあまり心に響かない。
私が幼い頃から図書室で借りる本は折り紙の本や迷路の本、「ウォーリーをさがせ」のような文字の少ない本ばかりだった。見つけた時や、できた時の喜びを感じられるので、読むことよりも見ることを好んでいた。そのため、母によく「いつも同じ本ばっかり借りて。別の本を借りてきなさい」と言われ、出版社の違う迷路や折り紙の本などを借りて呆れられたことがあった。

中学、高校生になっても、読み物は苦手だった。国語の時間に扱う文学作品は、難しい言葉が使われていて読みにくい。古めかしい言い回しが多くて何の話をしているのかよくわからないこともあった。
国語のテストの心情を読み取りなさい。筆者が述べていることを選びなさい、なんて問題は嫌いだった。書き手と読み手の気持ちが同じとは限らないし、物語に出て来る人の心情なんて、作った人しかわからない。それを問題にする方がナンセンスだと思った。
だから、私は国語が好きではなかったし、本を読むことも好きではなかった。

本を読むのが好きではなかった私に、大学の後輩が本を贈ってくれた

しかし、大学を卒業するとき、ある一つの絵本と出会った。
『あさになったのでまどをあけますよ』(荒井良二著)。この本は、私が大学を卒業する時にゼミの後輩たちからもらった本だった。
難しく長ったらしい本だったら読まなかったかもしれないが、本に厚みがなく、絵本だったこともあり、読む気になれた。本文は全てひらがなで、文字量も少ない。同じキーワードが繰り返されていて、どこか安心感のある本だと感じた。

最後のページには、後輩たちからの私へのメッセージがたくさん書かれていた。
「先輩のイメージを考えて、この本を買いました」
私のイメージ……。その言葉が気になりもう一度読み返した。そしてまた読み返した。
後輩がどうして私にこの本を選んだのか。卒業して、後輩の声を聞くことがなくなったが、この絵本を選んでくれたことには何か意図がある。

絵本の中で窓を開けた世界が、とても鮮やかに描かれている。いろんな景色が広がっている。繰り返しみることで、私も絵本の世界に引き込まれていく感じがした。
生きていれば朝が来る。窓を開けると鮮やかな世界が広がっている。窓を開けて、開かれた外の景色に繰り返される「ここがすき」の言葉。

私は基本的に真面目で、きちんと何でもこなそうとしてきた。多少の無理は平気なふりをして誤魔化してきた。辛いなんて口にできない。やらなきゃ。頑張らなきゃ。そうやって自分を奮い立たせてきた。そんな気持ちになることが多く、朝が訪れると、また慌ただしくなると、朝を悲観的に捉えることが多かった。好きなことよりも、やらなければならない事ばかりに囚われていた。外を見る余裕もなく、落ち込んだら下ばかりを向いていた。窓は締め切って、目の前の事ばかりに集中していた。

絵本の中にあった鮮やかな世界。後輩がこの本を選んだ理由が分かった気がした

きっと、後輩は、そんな私の様子や考え方に気づいていたのかもしれない。だからこの絵本を私に送ってくれたのかもしれない。そう思うと、この本がとても愛おしく感じた。
難しい言葉で書かれていなくても、本や筆者が伝えたいことがよくわからなくても、そんなことは関係ないような気がした。ただ、本を読んで見ることで、考えるきっかけになればそれで十分だと思った。

私は後輩に一冊の本をもらったことをきっかけに、本が好きになった。難しい言葉が使われている本はまだ苦手意識があるけれど、本って奥が深いなぁと感じるようになった。そして、私も絵本を作ってみたい。自分で文章を書いてみたいと思うようになった。

一冊の本が、私の考えをガラリと変えた。
今こうしてエッセイを書いていることも、絵本作家になりたいと思うようになったことも、あの本からかもしれない。
そして窓を開けて、見慣れた外を眺め、私は「ここがすき」を実感する。