大学で初めてゼミのメンバーが集められた日、教室で私たちは教授に訊ねられた。
「名前と、それから好きな作家を答えてください」

自称読書が趣味の私は、突然好きな作家を尋ねられ困ってしまった

私は困った。そんなの突然聞かれたって思い浮かばない。
自己紹介をさせられる時に必ずと言っていいほど項目に入っている趣味の話。特別目立った趣味じゃなければ言ったところでどうせ深掘りされる事などほとんどないので、私はいつもこう言う。
「読書と音楽鑑賞です」

嘘ではない。どっちも好きなこと寄りではある。けれど、本当のことを言うと読むよりも書くことの方が好きだ。でもなんとなく周りに合わせて当たり障りのない模範解答を並べるようにしていた。
周りと足並み揃えて当たり障りのないことを言っておけば、変に突かれることもなく、自己紹介というスタートラインでずっこけることはまずないからだ。

ところがそんな"自称"読書が趣味の女は好きな作家について答えなければいけなくなった。読書が趣味だと語っておいて、私は本屋でコーナーを作られるような有名な作家でさえよく知らないレベルの「にわか」なのだ。

表紙買いするタイプなので作家の名前までは覚えていない。どうにか脳内に浮かんできた文豪たち。そのほとんどは名前は知っていても、作品まで読んだことはなかったりする。

記憶をめぐるうちに思い出し、私は江國香織さんの名前を挙げた

教授に促され、最初の生徒の自己紹介が始まる。順番は名字のあいうえお順。私の順番が来るにはまだまだ余裕がある。全身を走っていた緊張が少しだけほぐれる。
チャンスだ。考えろ!思い出せ!作品を読んだことのある人、とくに聞かれても答えられるように何作か読んだことのある作家の名前……!

おそらく教授がそれを訊ねた意図としては、書き手の好きな作家の作風が少なからず影響を受けて、書き手の作風にも表れるからなのだと思う。
いや、そんなこと考えてる場合じゃない。今は作家名のことを考えろ!過去に読んだ本、もう教科書に載ってたやつでもいい。

記憶を巡るうちに、ついに私は一人の作家のことを思い出した。そして私は自己紹介でこう答えた。
「文学部の純江です。好きな作家は江國香織さんです」

無事に自己紹介をやりとげ、一日の授業を終えて帰りの電車に揺られながら考える。
なんで江國さんだったんだろ。

電車の中でずっと考えていたあの話。本屋で単行本を買うことに

私にとっての初・江國作品は、中学生のときの教科書に載っていた『デューク』だった。
『デューク』とは、愛犬デュークを亡くした主人公が、電車で出会った少年と一日を過ごす話である。教科書にも載っているので、もしかすると読んだことのある人もいるかもしれない。
初めてデュークを読んだときは、主人公が泣いているシーンで擬音として「びょおびょお」という言葉が使われていたところで手が止まった。
びょおびょお?擬音でびょおびょおって書く人初めて見たな……と不思議に思った。

電車に揺られ、ふわふわとしたほど良い眠気に誘われながら思い返す。
私はデュークについてはなんとなく話の雰囲気が好きだったことと、それから作中のあの独特な擬音のことぐらいしか覚えていなかった。あとは初めて読んだのは中学生の国語の授業の時だったけれど、高校の国語の先生も独自に授業で取り上げていたこと。国語科の女の先生に人気なのか?江國香織さんって。

電車の中でずーっとデュークのことを考えていたからか、なんとなくもう一度読み返してみたくなってきた。そういえば高校の時の国語の先生はこんな話もしていた。
「デュークは単行本の『つめたいよるに』に収録されているから、この作品で江國さんに興味が湧いた人は読んでみてほしい」って。
教科書は家のどこにしまったか思い出せないけれど、単行本の『つめたいよるに』なら本屋さんにあるはず。私は地元の最寄駅で降りると、真っ先に駅の近くの本屋に向かった。

デュークだけ読んだらまた…なんて考えは甘く、気づけば解説ページが

家に帰って自室のクッションにもたれかかり、放り出したカバンから買ったばかりの本に手を伸ばす。
自分の意思で本を購入したのはいつ以来だろう。絵の具を水で溶かして塗ったような色をしたリボンの絵の表紙を眺めながら思う。

江國香織著『つめたいよるに』はデュークをはじめ、デビュー作である『桃子』を含む21編を収録した短編集である。長時間の読書は苦手な方なので、短編集ということもあり手に取りやすかった。
やらなきゃならないレポートもあるし、ちょっとだけ……と、本を開く。目次によればお目当ての『デューク』は一番初めにあるらしい。私は早速読み始める。
短編集だしデュークだけ読んだらまた今度……なんて考えは甘かった。
気づいた頃には本の解説にまでたどり着いていたのだから。

初めにデュークを読んだ時、懐かしいと思った。あの「びょおびょお」という独特な擬音も、読むだけで物語の中の世界に入り込めるような鮮やかな彩りのある情景描写も。ああ、そうだ。こんな話だったなと思った。

でも、こうも思った。あの話の中の世界を、登場人物たちの一日を覗き込むような感覚はなんだろう?短編集だから一つ一つの話に全く違う世界がある。それは偶像の世界のはずなのに描かれる世界があまりにも鮮やかすぎるせいで、一つ一つの世界がまるでどこかに存在していて、その一部を切り取ってきたように錯覚してしまう。江國香織さんの中にはいくつの世界があるんだろう?

本を読んだ後、情景描写を気にするように。あの世界を味わってほしい

そして後々気づくことになるが、読む前と読んだ後では書く時の意識が明らかに変わった。
私の描く世界は読者を世界へ引き込めているか?五感を感じられるような表現は出来ているか?とにかくそういったような情景描写を気にするようになったと思う。

次に「好きな作家を答えてください」と聞かれる機会があったとしたら、私は間違いなく「江國香織さんです」と胸を張って答えることができると思う。もしも江國さんの作品を読んだことがない人がいたら、ぜひ『つめたいよるに』を手に取ってみてほしい。
そして、あの江國作品を読んだ時の物語の世界に入り込むような不思議な感覚を一度味わってみてほしい。あの感覚を知ったら読む前と読んだ後では、あなたも何かが変わるかもしれない。