「いいパートナーに出会えればいいのよ。女の幸せは」
と、母はよく言う。
幼い頃から繰り返し聞いていたので、いつしかこの言葉は鎖となって自分の考えを縛っていた。
大きくなるにつれてこの言葉を「恋人ができれば、幸せになれる」と捉えるようになったのを覚えている。
初めて恋人ができたとき、やっと私も心から幸せになれると思っていた
それから数年経って中学生になったとき、なかなか恋人ができない自分に焦るようになった。
しかしその一方で、当時は勉強に部活に非常に充実した日々を過ごしていて、友達と楽しく過ごしているときに「ああ幸せ」と思う瞬間は何度もあった。
その頃から「恋人がいなくても、人生楽しめるのでは?」と思うようになる。
人生で初めての恋人ができた時、それはそれは嬉しかった。
母に報告したら、「お幸せに」と喜んでくれたのを今でも覚えている。
「これでやっと私も心から幸せになれるのか」と思っていた。
しかし、当たり前だが付き合えたからといって、それが長続きするとは限らない。
育ってきた環境も出会ってきた人も違うため、すれ違いは起きて当然だ。
結局、自分が相手に気を遣いすぎてしまって疲れてしまった。
その時、「恋人ができれば、幸せになれる」は絶対的な考えではないと感じた。
何が自分の幸せか、は人によって違う。自分で感じるしかないし、自分でしか判断できない。他人の評価軸で測れるものではないし、測らせてはいけない。私の幸せは私が決める。
この考えを持ち始めてから、言葉の鎖は少しだけ緩んだ気がする。前よりも、生きやすくなった。
幸せの答えは人により違う。1人ひとりの幸せのカタチを尊重するべき
SNSを始めてから、いろんな人を見かけるようになった。
「結婚したいけれど、相手が望んでいないカップル」「付き合っているけれど、結婚はしないカップル」「結婚に興味がない人」「結婚したいけど、できないカップル」
結婚に対する考えは人それぞれで、時に議論を呼んでいる。その議論の原因は、未だ日本にはびこる「結婚は異性とするもの」という前提があるからだと思う。
結婚という一つの儀式は人を幸せにする一方、人を不幸にする側面も持つ。
幸せのカタチに他人が勝手に前提を押し付けてはいけないのである。
最近は母ともよく結婚について話すようになった。
「パートナーや結婚が全てではないと思う」とハッキリ伝えている。
母も、そんな自分の考えに理解を示してくれるようになった。「私は素敵なパートナーに出会ってほしいなと思っているけれど、あなたにとっての幸せはそれが全てではないものね」
自分はどんな時に幸せだと感じるか。
仲の良い友人とおしゃべりをしているとき。お気に入りの映画を観たとき。素敵な言葉を見つけたとき。自分の文章を褒められたとき。美味しいご飯を食べたとき。心から気を許せる相手に出会えたとき。
答えは人によって違うだろう。違って当たり前だ。
違うからこそ、1人ひとりの幸せのカタチを尊重するべきである。
いつのまにか、自分の中から言葉の鎖は消えていた。