私もかつてはわきまえていた。そう記憶しています。わきまえて得るものを知っているから、わきまえないタイミングとコツを自分なりに解釈してわきまえないでいる。そう自負しています。
頼られていると思いたくて、受動的わきまえ姿勢を遂行した結果は
弁(わきま)える。その意味を顕微鏡で覗いたなら、身の丈を知る、思慮深い、協調性、などの言葉に分解されるのではないでしょうか。出しゃばらず、適切にやるべきことをこなし、そつがないけれど印象にも残りにくい存在。
周囲への好感度と引き換えに、何かがどこかで疼く感覚。もしかして心の愚痴が溢れたのかな。私を置いて行くなって。
超わきまえガールだった、とある過去。人材の出入りが激しく、2年でも持った方になる職場にいた頃。持った方の私は「知っているはず、出来るはず」のラベルを貼られ、無茶振り、想定外、荷が重い案件の引き受け役に。当時は残業も業務のかさ増しもへっちゃら。だって、頼られていると思いたかったから。
だけど、思い違いに気づく機会は突然に。
「分かってると思うけど、例の件は君の落ち度だから、賞与査定に反映させてもらうね」
確かに主担当でしたがチーム制、かつ、私では防ぎようのないミスを、徹底フォローしたのにね。説明しても、答えは「残念だけど決めたことだから」の一辺倒。残念なのは、それだけかい。心の中で訴えながら笑顔で承諾。だって、いつものことだから。
取捨選択をしない受動的わきまえ姿勢を遂行した結果、都合の良い人ラベルを貼られて終わった悪例ですね。
プライベートでもわきまえ主義は健在。私の中に何が残ったのか
プライベートでもわきまえ主義は健在。ひたすら長いお付き合いをした彼は、全く身を固める気配を見せず、気づけば二桁周年目前に。
けれどそれを「異動の多い私が落ち着くタイミングを見計らってくれている。これは優しさ、つまり愛してくれているの」と言い聞かせ、期待を押し付けず、甲斐甲斐しく彼好みのオンナを維持して待ち続けた私。友達から耳の痛いアドバイスをもらっても、優しさには優しさで答えたくて、彼のテンポに任せたまま。
結局タイミングなんてものは来ず、終始都合のいいオンナだったと気づいた時には後の祭り。さよならの後に「もう誰の色にも染まらないぞ後夜祭」をしばらく続けたっけ。いい思い出です。
社会に都合のいい私、貴方に都合のいい私。
周囲に穏やかな時間が流れる中、私の中には何が残ったのか。
平和主義、協調性。
周囲に合わせた結果、私は何に成ったのか。
答えがどうであれ、言い訳はしません。だって。
大人なので責任はしっかり取ります。投げ出しません、わきまえてます。
わきまえているので合わせます。歩調の合わせ方、完璧に体得してます。
そんな脳内放送が聞こえた時の合言葉は、わきまえると言いなりは違うもん。
わきまえは体のいい言い訳で、大概その中身は我慢と諦めのアンハッピーセット。そりゃあ支障をきたしますわな。
マニキュアみたいに、わきまえ能力の薄め液があったらいいのに
ここで言いたいのは我儘の推奨ではありません。理不尽を察知した時に発揮すべきは、わきまえ能力ではなく、声に出して伝える勇気。自分の意見を表現することは、不協和音を生じさせる恐れよりも変わるきっかけを生むチャンスで満ちている。そう信じています。
何やかんや綴りましたが、身につけたわきまえ能力を今すぐ取り払えるかと言うと、悩ましいところ。マニキュアみたいに薄め液があったらいいのにね。のんびり参りましょう。
私はというと、職場での文面報告(バリカタわきまえ)と対面会話(バリやわわきまえ)の印象ギャップが謎と噂のわきまえ薄め中の女です。
わきまえてきた結果、わきまえずに済む場所を検知するセンサーの感度が上がり、良き所に落ち着き良き人々に巡り会えた模様。高い勉強料を払った甲斐がありました。
思うに、横柄とわきまえないは異質です。私が目指すのは、理不尽を強いる態度にはわきまえず笑顔で跳ね除ける、そんな品位あるわきまえない女。そこを目指して前進する日々はきっと、のびのび軽やかで歯応えのある日常の連続。