私があの本に出会ったのは、小学生の時だった。
あの頃は本が好きだったわけでもなく、誰かにその本を薦められて読んだわけでもない。
ただ導かれるように、自分の意志でその本を手に取った。
その本との出会いは、学校の図書館ではなく、古い本が山積みにされた空き教室だった。

本のタイトルは『戦火と死の島に生きる』(菅野静子著/偕成社文庫)。
今は新版になっているが、私が読んだのはそれより前に出た本だと思う。ページは黒ずんでいて、角も擦り切れて、ボロボロの状態だった。人の手に触れなくなってから、ずいぶん時間が経っていたのかもしれない。
あの本をに取った理由はきっと、戦争というキーワードに興味を持ったからだと思う。

太平洋戦争のノンフィクション。「知りたがり」の私は戦場の現実を知った

私はとにかく何にでも興味や疑問を持つ子どもだった。

空は何で青いの?
星はいつからあるの?
何で人間はうまれたの?

疑問に思ったことは先生に聞いてみたり、自分で調べたりしていた。私は「知りたがり」だったのだ。大人が答えづらい質問もしていたように思う。自分で言うのもなんだが、大人が扱いにくい子どもだったような気がする。

本の内容は太平洋戦争におけるサイパン島で起きた悲惨な出来事を書いたものだ。作者は野戦病院の看護婦として働いていた。そこで目の当たりにした戦場の惨さ、冷酷さをこの本で書き記している。
「ノンフィクション」
この本を読んで初めてこの言葉を聞いた。「現実に起こった話」を書いている本を読んだのは、これが初めてだった。
本の内容を完全には覚えていない。だが、この本を読んで私の「平和」に対する考え方が変わった。

この本に出会う前は、自分にとって都合の良いことしか考えてこなかった。
友達と一緒に遊ぶこと。家族と一緒に暖かいご飯を食べること。一生懸命勉強すること。お布団で温まりながら寝ること。
幸せな日々しか考えたことがなかった。小さい頃の私はそれが「当たり前」のことだと信じ込んでいた。
でも、戦争になると状況がまるで違う。
自分の愛する家族が死に、自身も飢えで苦しみ、最後には自決を強いられる。
これが私があの本の中で見た「もう一つ」の現実だった。

本の中で起こったような出来事が自分の身に降りかかったら、私はどうなってしまうのだろう。
作者のように悲惨な状態でも兵士を救おうとするだろうか。
兄弟の死を目の当たりにしても、生きる希望を失わずにいられるだろうか。
立ち上がって空を仰げるだろうか。
前に進むことができるだろうか。

戦争というものの現実を知った私は、どうしたらいいのか分からず、その本を抱きしめながら泣くことしかできなかった。

あのときの戦争は終わったが、まだ平和に暮らせていない人がいる

本を読み終えた後に、私は考えた。
「戦争」と「平和」は一体なんだろう、と。
そして、平和だと思っている現代だからこそ、戦争について考えるべきではないか、と。
そう思い立った私は、図書館にある日本の歴史の漫画・戦争の本を片っ端から読んだ。その中には戦争の有様を物語った写真もあった。目をそむけたくなるほどの悲惨な写真。人間と認識できないような写真もあった。
でも、決して目をそらさなかった。そらしてはいけない。写真から目をそらすことは亡くなった人に対する冒涜だ。過去の出来事を現実として受け止め、向き合わなければならないと、小学校の頃の私は思った。その考えは今も変わっていない。

「平和ボケ」という言葉がある。
この言葉は「平和」になった現代だからこそ通用する言葉であり、戦争を忘れてしまった私たちを戒める言葉でもある。
でも、果たして現代は本当に「平和」になったのだろうか。
あの時起こった大きな戦争はもう存在しない。しかし、世界にはまだ平和に暮らせていない人々が大勢いる。
家族を失った人。国を追われた人。戦火の中にいる人。明日のことも考えることができない人。飢えている人。
私たちの目には見えていないだけで、多くの人が未だ苦しんでいる。
この人たちのことを考えずに私は生きていけるだろうか。

否。無理だ。
それはあの本に出会って、戦争を知ったあの時から、戦争の記憶とともに生きると決めたあの時から、私は全ての人が平和に生きられるように支えていきたいと考えるようになったのだから。
だから私は今日も考える。
「戦争」とは何か。「平和」とは何か、を。
これらについて考えることが、私があの本からもらった「大きな贈り物」のように思う。