読書が嫌いな私は、「読書好き」というステータスに憧れていた

私は読書が嫌いだ。
一方、兄は読書家だ。彼は小学校の3年生くらいのときには、300頁くらいはある分厚い本を読んでいた。

私は不思議だった。どうしてあんなに延々と文字ばかり書かれたものとずっと向き合っていられるのだろうか。でも兄曰く、本はおもしろいと。
また仲のよい友人にも読書好きがいた。彼女も似たようなことを言う。自分には本のおもしろさがわからないことが、私は悔しかった。

それに、本が好きであるということは一種のステータスだと思う。スタバのカップを持っているとちょっと余裕のある人間に見えるように、読書好きだと言うと、一人で楽しむ世界をもっている雰囲気が出る。
だから私だって本を読める人になりたかった。

1ヶ月かかったけど、読み終えたことは私にとって快挙

ある日、本屋さんで本を買ってみた。いつもの漫画コーナーより奥に進んで、小説の棚の前に立つ。本に対して好みも何もない。ただ一点、本の薄さだけで選んだ。それが銀色夏生の「ひょうたんから空」だった。

薄い本だったけれど、毎日少しずつ読んで、読了には1か月くらいかかった覚えがある。
読むのが大変遅い。けれども、文字を主体に構成された本を一冊読んだなんて、私にとっては快挙だった。

特に大きな話の展開があるわけでもなく、ほのぼのとした日常が描かれていたように思う。内容はうろ覚えだけど、登場人物の飾らない、というか決して立派ではない体たらくが描かれていて面白かった。

わざわざ文字にして残されるのは、国語の教科書に載っているような話ばかりじゃないのだ。例えば「XXくんは今日も家でゴロゴロして鼻をほじっている。」というような一節だって立派な文章じゃないか。そして、それを読むことだって立派な読書じゃないか。

大したことのない日常の面白さと、人の考えを教えてくれた本

「ひょうたんから空」は国語嫌いの私の読書のハードルをグッと下げてくれた。そして、大したことのない日常が面白いのだと教えてくれた。

登場人物のセリフを読んでいると、人が何を考えているかなんて聞いてみないとわからないとつくづく知るのだ。
本に出てくるある女の子は、苦手な人と話す時は、その人の目ではなく眉間を見るのだと言っていた。相手に緊張してしまうのが、それで緩和されるらしい。
普通に話していたなら、単に愛想よく会話してくれているようにしか見えない子も、実は人と話すのが苦手かもしれないのだ。

私は決して人と話すのが得意な方でなかった。むしろ、ヒエラルキー下位にいて子供なりに遠慮があった。ちょっとイケてる人たちには自分からは話しかけない。なにか違うのだ、あの人たちと私は。

でも、それは思い過ごしかもしれない。彼女たちだって私と似たようなことも思っているかもしれないのだ。
人のことは聞いてみなきゃわからない。立派に見える、きらきらして見えるあの人たちも、劣等感の塊かもしれない。自信満々に見えるあの子も、人の眉間を見ながら話しているのかもしれない。家でゴロゴロして鼻をほじっているのかもしれない。