会社に行けなくなった人がよく言う「会社に行けない」ということが、一体どういうことなのか、私はよくわかっていなかった。
これは科学や医学の話ではなく、あくまでも私個人の感覚の話になるのだけど、たとえば人は出勤するとき、「会社に向かって歩こう、右足を出して地面を踏んで、その次は左足を出して地面を踏んで、前に進もう」というような信号を頭から体に送っている。
会社に行けなくなるとは、その信号にバグが起きることだ。

「会社に向かって歩こう」が「会社に向かって歩きたくない」になり、「右足を出して地面を踏んで、その次は左足を出して」が「右足も左足も動かしたくない」になってしまう。信号が上手に送られなければ、体は動かない。動かせない。
そういうことが私の身にも起こった。3年ほど前の話だ。

途絶えた始めた私の信号。いつしか信号を送る意識すらできなくて…

それでも足が物理的に動かないわけじゃないから、「しんどくても、会社に行って仕事をしなきゃ」と思っているうちはどうにかなった。元気なときは無意識のうちに送っている信号を、意識的に、無理やり送るのだ。
ただ会社の方角に向かって、右足と左足を交互に出せばいい。それを繰り返すことでどうにか会社にはたどり着く。

あるとき、そうして会社の前までたどり着いて、私の信号はまたぷつんと途絶えた。目的地は目の前なのに、「会社の中に入ろう」という信号がどうしても送れなくて、私はビルの横にある階段に座り込んだ。会社員や学生がたくさん歩く通りの横で、日の当たる階段に座って、10分ほどぼうっとした。
信号はまだか。まだか。よし、今ならいける。今にも消えそうな、かすかな信号をたぐり寄せるようにして立ち上がり、会社のエントランスへ向かう。
勤務時間に融通が利く会社だったこともあり、怒られることはなかったけど、仕事はどんどん溜まっていった。
当たり前に残業が増えた。会社に入れない日も比例して増えた。

そういう日をしばらく繰り返したあと、ついに体が動かないことに加えて、心も動かなくなった。信号を送ろうと意識することすらできなくなった。「会社に行かなきゃいけない」「仕事をしなきゃいけない」という責任感が、かつては人一倍強かったはずのそれが、ふわふわと霧のようににじんでいく。
目覚まし時計を何度も止めたあとでようやく起き上がり、朝食を食べ、私は固まった。

かたっぱしから電話をかけた心療内科。薬を処方され自分の状態を知る

会社に行かなきゃいけない、とはもう、思えない。仕事をしなきゃいけないという気持ちにもなれない。自分の心をそこに向けることができない。いま家を出ても、会社にはたどりつけない。
そこまで動かなくなってようやく、このままではやばいかもしれない、と思った。

その日、私は自宅から歩いて行ける範囲の精神科と心療内科にかたっぱしから電話をかけた。驚いたことにそういった病院はどこもいっぱいで、予約が取れるのは2週間後です、とまで言われた。
2週間後じゃだめだ。私は今すぐ誰かの助けを必要としているのに。2週間もあったら、どうなってしまうかわからないのに。

それから会社の近くの精神科と心療内科にも電話をかけた。ひとつ、2時間後に予約が取れた病院があった。私はすぐに家を出た。
会社に行くときはあんなに重たかった足がどうにか動いたのは、そこにあるかもしれない助けにすがりつきたかったからだ。

病院の診察室で、いま自分の心と体で起きていることについて、とにかく話した。ちゃんと話せていたかどうかはわからない。でも、たとえば体がなんとなくだるい気がするとか、午後になると手汗が止まらなくなるとか、文章を読むのが前より遅くなったとか、そんな話をただ受け止めてくれる相手がいるというのはずいぶん助かった。
医師の質問に答えることで、自分でも気づかなかった不調にも気づけた。涙がぼろぼろ出た。

「抑うつの症状が出ていますね」
そう言われて薬を処方されたとき、私は安堵した。私、正常じゃなかったんだ。やる気がないだけでも怠けているだけでもなくて、不調があったんだ。動けないのも歩けないのも、しょうがなかったんだ。

病院が出してくれた「休んでいいよ」の許可は私を救ってくれた

病院でもらった診断と薬は、「今のあなたは健康な状態じゃないから、休んでいいよ」という許可のように思えた。そのときの私はもう、自分で自分にその許可を出すことができなくなっていた。許可を出さなきゃいけない状況だという判断力も、許可の出し方も、何もかもわからなくなっていた。
あのとき病院を頼って本当によかったと思っている。

それから私はしばらく会社を休んだ。休んで、復帰して、また休んで、それからしばらく経って環境を変えた。
いまでも病院にはときどき行くし、夜眠れなかったり外に出るのがだるかったりすることもあるけど、信号は正しく機能しているし足もちゃんと動く。喜怒哀楽をはっきりと感じる。疲れたら休もうと思える。
私の代わりに判断してくれる場所、私の代わりに許可してくれる人がいるだけで、生活はずいぶんと安心できるものになる。
一人で背負うことを当たり前にせずに、頼ることをためらわずに生きたいし、私以外の人にもそうしてほしいと思う。