人生には、周りに頼らざるを得ない時が時々訪れる。
時は遡って、2016年。高校3年生のときだった。
朝起きると、2階の窓から見える空がとても綺麗だった。いつも見ている景色のはずなのに、その日は特別に映っていたのか、空の写真を1枚だけ撮って、学校へ行く支度をして家を出た。
それが、最後に見た我が家からの景色になるなんて、この時はまだ思ってもいない。私も、また当たり前にこの家に帰って来れると思って家を出るのだ。
「火事になった」。突然の知らせにパニックになって溢れる涙
授業が終わり、次の授業の準備をして先生がくるのを待つ。しかし、先生がなかなか来ない。授業の時間が潰れてラッキーである。この時間は自習かもしれないと、期待まで高まる。
しばらくすると、廊下に学年の先生が多数集まっている。そして、私は担任に呼ばれた。
「お母さんから家が火事になったと連絡があった」
そう伝えられた。
突然のことで、頭の中はパニックである。だけど、冷静に火事になったことだけは頭に入ってきていた。
「全て無くなったんだ……」
咄嗟にそう思った。周りの先生も突然のことに動揺し、私は恐怖を感じて目からは次々と涙が溢れていた。
今は亡き隣のクラスの先生が、私の肩を抱いて「大丈夫だよ」と言ってくれていたことだけは鮮明に記憶している。
後日談だが、私と同じ名字の生徒がいたために特定に時間がかかっていたのだという。
消防士と一緒に家の前まで行く。もはや、家なんてものはなかった
私は荷物を持って、職員室に行った。いつもは怖い学年主任が1万円を手渡して「タクシーを呼んだから帰りなさい」と。
私は言われるがまま、来たタクシーに乗った。運転手さんの前では平常心でいようと思っていたが、頭の中は家のことでいっぱいだった。家に近づくほど私の心拍数も上がっていくのを感じていた。
家へと続く道で警察官に止められるも、家族だと運転手さんが言ってくれて、通ることができた。
「なんだ、運転手さん知ってるじゃん……」
きっと先生が話してくれたのだろう。
タクシーを降りて、消防士と一緒に家の前まで行く。もはや、家なんてものはなかった。2階なんて跡形もなく燃えて崩れ落ちていた。
救急車の中に両親は、いた。祖母も祖父も来てくれていた。わたしは、祖父の車で待機した。
その日、わたしの両親は家にいた。なのに、外から誰かに火をつけられた。近くにいた人に燃えてるから逃げろと言われたみたいだ。火は、消そうとしても消えなかったという。命が助かっただけでも感謝をしたい話なのであるが……。
自分の周りにあったもの、当たり前だと思っていたものが全て無くなる
ちょっとだけ想像してみてほしい。
ある日突然家が無くなるということを。私の私服は着ていた制服だけ。今、自分の周りにあるもの、当たり前だと思っていたものが、全てが無くなる。いままでもらった物や卒業アルバムも幼少期の写真も集めてきた推しのグッズすら、一瞬で灰となってしまう。残っていたとしても消火のための水で、ビショビショになっていた。
空は暗くなっても、両親は色々な手続きをして、市営住宅に行くことになった。車はファーストフード店に事情を説明して停めさせてもらった。そのときにもらったコーヒーも日本人も、あたたかいと思った。その日に同じ部活の同級生が市営住宅まで来てくれて、ご飯や日用品を大量に置いて行ってくれた。
テストが近いのに、私は学校を休むことになった。友達にノートを貸してもらいながら家で勉強した。授業を受けなくてもいい点数を取ってやろうと開き直って受けたテストが、今までで1番成績が良かった。
部活の顧問もアパートまで来て、テーブルをくれた。部員は、貴重な休みの日に体育館にあった冷蔵庫を綺麗にしてくれて、その冷蔵庫は後日アパートに届いた。部活の卒業生や先生方からも支援金をいただいた。クラスからはブラウスや靴下をいただいた。ほとんど学校に置いていた教科書だったが、無くなった教科書は学校がくれた。
そのときは必死だったけど、頭が上がらないほどの恩をもらっていた
そのときは必死だったけど、今思えばこんなにも支援してもらったし、連絡だってたくさんの人からもらった。頭が上がらないほどの恩をもらった。
ふだんは、あまり頼りたくないと思う私だけれど、支えてもらっているからこそ生きていけることもたくさんある。今わたしに出来ることは、してもらったことを忘れないこと、恩返ししていくことだと思っている。
目の前にある当たり前は、一瞬でなくなることを忘れがちであるが、だからこそ悲しい出来事は起こるのかな、とも思う。そして、誰かに支えられていると気づくのである。
周りに困っている人がいるのならば、どうかそっと声をかけてあげてほしい。それだけで、温かさは伝わるはずだから。