昨年の夏、私は生まれて初めて私にすがりついた。
頼む、立ち直ってくれ頼む。今までずっと「私なんか」と馬鹿にして、この世で1番頼りないはずの存在だったのに、私は私自身に助けて欲しくてたまらなかった。

新卒で入った病院では日々、コロナによって命を落とす人たちを見ていた

もう退職してしまったけれど、昨年の春、新卒で入った総合病院を休職した。
新型コロナウィルスのデルタ株が猛威を奮っている時期で、日々何人もの命がこぼれていくのを目の当たりにしていた。新型コロナウィルス感染症で亡くなる方はもちろん、どうしても救急車の受け入れができず、恐らく救命は難しいと思われる交通事故、心疾患、脳疾患……。
自分や自分の大切な人達が事故を起こしませんように、倒れませんようにと願い、この瞬間感染しませんようにと患者さんに触れる毎日。自分の仕事が家族を危険に晒しているという焦り。社会に必要とされているという誇りと、感染源になりうると社会から疎まれている虚しさ。メディアで医療従事者を賞賛する声を聞く度、自分が差別される側に回ったことを思い知らされた。
ああ、戦地に送り込まれる一般人ってこんな気持ちだったのかも。お金も出したくないし休みもあげたくないし、賞賛しかあげられるものないよね。口で言うのは痛くも痒くもないもんね。たまたま就職先に医療職を選んだだけの、ただの人間であることを忘れたくなかった。

心身の不調で休職。何もできない自分を軽蔑していたが、久しぶりに欲求が

何人もの職員が心身に不調をきたして休職し退職した。そのうち私の番が来た。
人手不足の中、休職した人をまた優しく受け入れてくれるような職場ではなく、そのまま逃げるように退職した。季節は春から夏に移り、指一本さえ動かすことが億劫な中で入道雲がもくもくと空を覆っていくのを眺めていた。
それから後のことは正直あまり覚えていない。ある日だいぶ前にはまったアイドルグループの情報をSNSで見かけた。「みたい!」と思った。
30分コンビニをうろうろしても食べたいものが思いつかず水だけ買って帰る、といった調子だったので、久しぶりに湧き上がってきた欲求に自分でも驚いた。

みたい、みたい、みたい!

けれど視聴のためには動画サービスへの会員登録が必要だった。回らない頭で個人情報を入力し、支払い情報を決定しないといけないのか……すごく面倒くさい。
すぐにまた布団に横になりたいと思いながらも、「この欲求を満たしてあげたい」という気持ちがむくむくと湧いてきて、よっこらよっこらベッドを降り、レシートでいっぱいになった財布からクレジットカードを引っ張り出してきた。
カード番号さえまともに入力できず、十数回会員登録に失敗しながらなんとか会員登録を終えて、小さなスマートフォンの画面いっぱいに映るアイドルたちを見たら涙が溢れてきた。

私はやり遂げたんだと思った。普段ならなんともないインターネット上の手続きも、動画を見て涙を流すことも。私が私を取り戻してきている実感に安堵した。
休職してから、いや、ややもすると休職するずっと前から私は私自身のことを軽蔑していた。こんなこともできない、あんなこともできないとバカにしていた。
でも、私はできるじゃないか!私の願いを叶える力を持っているじゃないか!意外と私って頼りになるんだと、思わず笑みがこぼれた。

雪が解けていくように、私は人に頼ることができるようになっていった

それから春に雪がゆっくりと解けだすように、心身はよくなっていった。
それは少し人を頼ることができるようになってきたからだと思う。今まで主治医にすら軽蔑されることを警戒して本心を隠していた。コンビニやスーパーのスタッフに対しては、心の中では嫌がられているのではと不安で小銭を出す手が震えていた。
けれど、だんだんと気にならなくなっていって、今はまた別の場所で全く違う生活を送れるまでになった。その他人に対する拒絶から受容に至る過程は、私が私を頼れるようになる過程とよく似ていた。

私は学んだ。人に助けを乞うということは、まず自分を認めるという前段階が必要だということを。自分を少しだけ信頼し、退屈で傲慢でありふれた自分をちょっぴり許すことを覚えた。
もちろん今も、いつの間にか目を釣り上げたもう1人の自分が私を許せないと罵詈雑言を浴びせることも多いのだが。それでもいいのだ。
私はこんな私に寄り添って、いきたい。