この言葉は人間を殺すのだと思います。
“普通”
大多数側ではないことを、理解してもらえるよう考えないといけない
プライベートが謎めいていた上司から、今年新築の一軒家が完成し奥さんと子供二人と新たな生活を始めたという話を聞いた。パーソナルな部分を知ることができた嬉しさと、幸せそうに話す姿に少しでも同じ熱量で返事をしたいという思いから、最上級に口下手な私なりにとても褒めた。すると一緒に聞いていた別の上司が「砂凪さんだってこれからだよ」と言い放った。
私には結婚願望がない。子供が欲しいと思ったことも今までない。どう考えてみてもそのような将来を想像することができないし、今後も変わらないと思っている。
先の発言をしたのは男性上司だったから、女は全員結婚したいと思っているなんてまったくもう困っちゃうわと最初は思った。しかしそうじゃない。男女なんか関係なく、世の中はそんな会話で溢れていた。家庭を持ち生活を営んでいくことが、人間が歩む道として普通だ。だってそれが大多数だから。
そうじゃない時には理由が必要らしい。
自分の考えが大多数側ではないことを、他人に理解してもらえるよう説明文を考えておかないといけない。なんで結婚したくないの?なんで子供欲しくないの?なんで女の子なのに青い筆箱使ってるの?なんでみんな校庭で遊んでるのに行かないの?
ランドセルは誰に言われるでもなく赤を選んだ。それが普通だから
昔、同級生に黒いランドセルを背負った女の子がいて、羨ましかった。当時私はピンクや赤が嫌いで青色が好きだった。でもランドセルを買ってもらう時は誰に言われるでもなく赤を選んだ。言わずもがなそれが普通だから。一般的な赤より少し深い赤で、よく見るとチェック柄の模様が入っているタイプを選んだ。嫌いな赤を使う自分を納得させるために。黒いランドセルを使う彼女はキラキラして見えた。でもいつもなんで黒なのと友達や大人に聞かれていた。
生涯で何度も、何度も、私が私自身を殺す羽目になった普通という概念。例えば目玉焼きに何をかけるかから性別における社会的役割(そんなものはクソくらえだけれど)にまで普通は存在する。直接誰かに言われなくたって、世の中には普通に当てはめようとする無言の圧力がごろごろしている。もうこれ以上他人と比較して自分を卑下することがないように、普通とは“その他”なのだと言い聞かせて生きていくしかない。
他人との違いに悩まされて、普通とは何かを考えた時に周りより劣る自分を思い浮かべてしまうけれど、ひょっとしたら普通の枠からはみ出しているかもと気づいた瞬間に色が付いたような嬉しい気持ちになることもある。その他大勢とは違う特別な自分を意識できるのは、選択に自信を無くした時だ。
青い筆箱を使って、ひとり教室で本を読んでいた私が、自信をくれる
それを押し付ける人間は、世の中の全てが怖いんだ。本当はみんなだって普通の仮面の下には色んな嗜好とか感情とか、欲とか狂気とか、変なものなんて沢山持ってるはずなんだから、一回みんなで見えるように全部並べてみたらいいと思う。結局普通な人間なんてひとりもいないのにそれに気づかない人が沢山いる。それは言葉の凶器となって無意識に人を傷つけてしまうし、永遠に普通という概念を無くすことはできない。
だから、たとえ頭に思い浮かぶ限りの人間をひとりひとり指差して「普通。普通。あなたも。普通。ありふれている。あなたも、あなたも」なんて勝手に決めつけてでも、私は普通じゃない自分を守りきらないといけない。ふと自信を失って、みんなと同じが正しいかもしれないと迷った時には、頭の中でその凶器を使ってでも特別な私を保たないといけない。
青い筆箱を使って、ひとり教室で本を読んでいた小学生の私。大したことじゃないけれど、周りに流されなかったありのままの私はこれからもきっと、選択の時に自信をくれるのです。