鳴かず飛ばずだったモデル活動。大学卒業と同時にやめることに

たぶん、早く着きすぎてしまった。2月下旬で、冷たい風が吹く夜だった。

待ち合わせ場所の改札は、せかせか急ぐ大人や所在なげにスマホを眺める若者でごった返している。
手袋や帽子で無機質に飾られた人ごみの中で、田中さんは柱にもたれて立っていた。黒いニットにグレーのロングコート。背が高く整った顔立ちだから、とても50歳手前には見えない。
田中さんがわたしに気づく。「リンちゃん」と呼ばれて、背中がざわりとした。

喫茶店に入る。店内の人はまばらで、BGMであるはずのショパンがやけに大きく聞こえた。
普段は頼まないブラックコーヒーを注文して、口を開いた。
「わたし、大学卒業と同時にモデルやめます。田中さんにはお世話になりました。今日はそれを言いに来たんです」

田中さんが社長を務める小さなモデル事務所。サークルにも入らず勉強も最低限に抑えて大学在学中に活動していたが、鳴かず飛ばずであった。
「最近メールも返ってこないし、電話にも出ないと思ったら、そんなことか」
田中さんは、紅茶にミルクを注いだ。透明な液体は白のマーブル模様で満たされ、カップの底が見えなくなる。

「社会人になっても細々と活動している子もいるし、今やめたらきっと後悔するよ。リンちゃんはまだ伸びしろがあるし」
「伸びしろって何ですか。やりたいファッション雑誌のお仕事全然もらえなくて、AVまがいのスナップ撮影ばっかりで」
声がとげとげしくなるのを必死で抑える。
カッとなっちゃいけない。大人にならなければ。

自分の若い体が大金と同じ価値を持つなら、活用すべきではないか

「今から痩せてどんどん綺麗になる年頃だし、大人っぽい恰好をして売り方を変えるのもアリだ。方針転換で売れっ子タレントになったレイナちゃんの例もあるだろ」
「レイナはわたしと同期に事務所に入ったんです。お気に入りだったんですよね? 田中さんと何度も寝たって言ってましたよ」
田中さんの目が細くなった。乱暴に置かれたカップが耳障りな音をたてる。
「リンちゃん、外でそんなことを言うものじゃないよ」
「事務所内の枕制度、もう皆知ってますよ。お金を積むか、社長と寝るか、どっちかができるモデルだけが売れていくんだって」
言葉は坂道を転がる雪玉のように、加速しながらどんどん膨れ上がる。
「わたし、もう限界です。これ以上ここでモデル続けられません」

非常に機械的な手続きだった。
わたしが解約申請書類に記入してハンコを押す間、田中さんはずっと無表情で、ミルクティーからはゆるやかに湯気が立っていた。

田中さんを残して喫茶店を出た。大通りに出てあてもなく歩く。
透明なショーウインドウに鮮やかな色の新作ワンピースが並んで、わたしを見下ろしている。なるべく視界に入れないようにして、ゆっくりと記憶を遡った。

同期のレイナは、事務所契約料に加えてかなりの金額を積み、モデルの仕事をもらっていた。
正直羨ましかったが、彼女と同じ方法で張り合うことは到底できなかった。実家は裕福ではなかったし、わずかなバイト代はすぐに事務所との契約料に消えてしまう。
一度だけ撮影終わりに田中さんからホテルに誘われた。打ち上げと称したワインバルで、デザートを頼んだ直後。二回りほど離れた年齢の田中さんの振舞いはスマートで、妙に色気があった。

チャンスだと思った。承諾すれば、レイナより大きな仕事がもらえるかもしれない。
自分の若い体が大金と同じ価値を持つなら、活用すべきではないか。
導かれるままに繁華街を通り抜けて、ホテルの前までたどり着いた。
しかし急に我に返ったわたしは、田中さんの手を振り払い、走って逃げた。

逃げた明確な理由は覚えていない。急に怖くなったからか、あるいは当時の彼氏に罪悪感を覚えたからかもしれない。
そんなことがあった後も、田中さんはいつも通りだった。スルー、見ないふり、なかったことにする。
これが大人の対応、大人の世界なのだとわたしは一人納得した。余裕があって恰好いいかもとすら思った。

大人に見えたあの人は、どこにでもいるクズだった

ある日、レイナからメッセージが来た。彼女と個人的に連絡を取ることは滅多になかったので驚いた。
「田中さんの寝顔めっちゃ可愛いよね、リン知ってた?」という文面と、ツーショットが表示された。

共有された一つの枕。眠る田中さん。すっぴん風メイクを施したレイナの上目遣い。
田中さんは大人に見えたけど、どこにでもいるクズなんだな。急速に熱が冷めると同時に、もう無理だと思った。わたしはこの世界で戦えない。
わたしが躊躇することも、レイナはあっさりやってのける。彼女の金銭的な余裕に加えて、夢をつかむために手段を選ばない真っすぐさとタフさが一周回って羨ましい。

大通りを進んでいく。周囲にはファッションビルよりもオフィスビルが多くなり、強い風が髪をぐしゃぐしゃにした。「ビル風」という言葉はなぜかオフィス街を想起させる。
可愛いけれど薄っぺらいスカートは風を防げず、わたしは震えながらも足を前に進めた。おしゃれは我慢だとうたう雑誌の端に、自分の居場所が欲しかった。
夢を見るためには現実を直視しなければならない。きっとそれが大人になるということだ。