その人は、職場の先輩から紹介してもらった人だった。
自分よりも年は上。初めて会った時から、なんだかとにかくすごい人だと、今までに感じたことのないくらい刺激があった。平凡な日常の中で、こんな人に出会えたなんて、ものすごいゾクゾクした。
何がすごいのだろうか。言葉にするのは難しい。あえて言うなら、人間味がすごいと言ったところだろうか。   

その人に会うと、魔法の薬をもらっているような気持ちになった

とにかく自分の考えがしっかりしている。周囲には流されない感じが、普通の人とは全く違った。どこにでも、誰とでも出来る会話内容ではなかったので、普段から人に合わせて無理をしている自分にとってはものすごく自然体でいられたし、自分をさらけ出すことも出来た。
会っている時間はびっくりするくらいあっという間に過ぎ去り、なかなか会えないこともあり、一度会うと、次に会うまでにまた空白の時間があると思うと、憂鬱な気持ちになった。

人に同情されるのが嫌い、でも、共感はしてほしい、そんな歪んだ性格のせいか、普通の人とは全然うまくいかない。というか、うまくいかせようという気がない。
こんなことを言ってはいけないが、普通の人には興味がなくなってしまうのだ。しかし、その人には自分でもびっくりするくらい、興味しか沸かなかった。もっと知りたい、どんどんその思いが募っていった。

うまく言葉にできないが、その人に会うと、私は麻薬のような、いや、麻薬を使ったことがないので、よく分からないが、魔法の薬をもらっているような気持ちになった。会うだけで、こんなに自分の気持ちが揺れ動くとは、完全にその人のことを好きになっていたのだろう。
そして、これが人を好きになるという気持ちなのだろうかと、自分でもワクワクした。とにかく、その人のことを考えている最中は気持ちが満たされる。自分以外の人のことを考えて幸せな気持ちになれるとは、まさに夢心地だ。好きな人がいる日々が、こんなにも幸せだとは思わなかった。

私とその人の気持ちは同じじゃないから「好き」と言えなかった

これが両想いならもっと良いに決まっているが、私は片思いでも十分に満足できてしまっていた。しかし、相手は自分に対して好意が一切ないことが何となく分かった。自分に対してさほど関心があるわけでもなさそうだし、連絡の返事もわりと遅い。
それなのに、私は好きな人がいる生活から、ずいぶんと遠ざかっていたので、というより、本当にすごい人だったので、片思いだけで幸せだった。
同じ空間に身を置くと、言葉にすればそれは当然、こちらに声として伝わってくるが、言葉にしなくても相手の感情は不思議と伝わってくるものだと感じた。
完全なる片思い。冷静にならなくても明らかすぎた。私は分かりやすい人間なので、相手に対して好意があることは、きっと相手にはいとも簡単に伝わっていただろう。

「好き」と告白してしまえば、きっともうこの中途半端な、あえて言うなら友人という関係さえも終わりを迎えてしまうと分かっていたので、その2文字がずっと言えなかった。というか、言いたくなかった。自分がフラれることは分かっている。
でも、せっかく、今は全くの他人ではないのだから、この時間が少しでも続いてほしい、そんな一方的な気持ちで、私は告白することをひたすらためらった。
この広い世界で不思議なつながりで、全くの他人ではない関係も、「さよなら」と言われたら、元通りだ。道ですれ違ったとしても、気にすることすらしない1人にすぎなくなってしまう。見ず知らずの人になってしまう。
もう、連絡をこちらからすることも出来ない。そうなれば、こちらが背中を一方的に追いかけることは、単なる不審者だ。だから、たった2文字を言う気にはなれなかった。

好きと言えないまま別れがきた。最後まで私に魔法をかけた

最後の別れは、直接会った時ではなかった。きっと私が傷付かない別れ方を考えてくれたのだろう。そんな気遣いすら、好意を持ってしまった。一途になりすぎていた自分に、呆れてしまった。
もう追いかけることの出来ない背中。また、好きな人のいない、ありふれた無味乾燥な、平凡な日々が続くと思うと、私は途端に生きる意欲をなくした。
何をするにも活力が沸いてこない。朝、起きた瞬間から、体が重すぎる。私はその人に会うことで、勝手に魔法の薬をもらい、その薬が切れてしまったために苦しんでいるのだと実感した。
元々、薬に依存する生活などしてはいけない。自分の力で生きていかないといけないのに。楽しみなんて、この世からいっさい消えてしまえば良いと思った。周囲に流されながらの愛想笑いでさえ、面倒に感じた。

やっぱりあの片思いの、ほんのわずかな期間が自分にとってどれだけ価値のあるものだったのかと思うと、たとえ自分のことを好きになってくれなかった相手ではあるが、心からの感謝を込めて「ありがとう」と伝えたい。それ以外にも、言いたいことは山ほどあるが、それは、言わない。というか、そもそも相手がいないから、言えないのだけれど。
もし、あの人に会えたら、また魔法の薬をもらいたいと思うが、薬は一時的にしか効かないことを分かっているので、今はもう会いたいと思わない。好きだということに変わりはないけど。