「大人」とは自分の心と身体の機嫌を、ある程度自分で取れるようになることなのだと思う。
心のどこかで気付いていた現実も、誰にも言えなかった中学の二年間
物心ついた時から「しっかりしてるね」「頼りになるね」「大人っぽいね」という、大人からの言葉が最上級の褒め言葉だと思っていた。
八つ下に妹が生まれたことで、今まで自分だけに向けられていた「かわいいね」という言葉は妹のものになったから、というのも大きかったと思う。
それから段々と「できない」と人に言うことや、辛かったことを話したり、弱さをみせて頼ることを、「恥ずかしい」と思うようになった。
「大丈夫」と言うことが口癖だったけど、それは大丈夫、と自分に言い聞かせて思い込ませていただけで、本当は大丈夫ではなかったのだと数年経ってから気づいた。
中学生一年生から二年生まで、実は結構ひどいいじめにあっていて、知らない間にスクールバッグに踏まれたような足跡がいくつもつけてあったり、面と向かって悪口や顔や髪の特徴を馬鹿にされたり、生活委員の生徒に寝てもいないのに授業中に寝ていたと日誌に書かれて呼び出されたり、教科書が教室の窓から捨てられていたこともあった。
これはいじめられているのだと心のどこかで気づいていたのに、人に言えば本当になってしまう気がして、誰にも言えなかった二年間。
せっかく隠していたのに、自分の通学路とは全く関係ない場所に私の教科書が捨ててあったのを見つけたバーミヤンの従業員の方から家に電話があった時は、
「きっと誰かが間違えて持って帰ったのが恥ずかしくて、そこに置いたんだよ!」
と意味のわからない言い訳をしたのを覚えている。
強くて大人な私を演出していた話を母にできたのは、大学生の時だった
大きな声で笑うことができなくなって、家族のくだらない冗談を冷たい目で見て、"ませてて強くて大人な私"の演出をしていた。
そうでないと"いじめられてる可哀想な私"が本当のことになってしまいそうで、怖かったのである。
私は辛いことばかりなのに、という思いが無意識のうちにあったせいで、大好きなはずの妹の、屈託のない純粋な笑顔を見るのが苦しくて、イライラして小さなことで怒って、当たってしまうことも多々あった。
妹が成長して、お互いに色々な話を対等にできるようになってやっと、私は実はいじめられていたと、それまでの何年間はずっと、「大したことではない」と思っていたものを「本当はすごく辛かった」という話が母にできたのは大学生の時だった。
一つ弱さを見せてからは、だいぶ生きるのが楽になった気がする。
出来ないこと、辛かったこと、いらいらしたことを人に相談できる、というのは私にとって大きな進歩だった。
数年間、人に甘えるのが苦手だった分を取り戻すように両親、妹にたくさん愚痴を言うようになって、くだらない冗談も自分から率先して言うようになった上に、よく泣くようになった。
泣いてみたら、涙を流す、という行為が自分にとってリフレッシュになるということに気づけた。
頼れるようになって分かったのは、自分自身の機嫌の取り方だった
私は姉で、頼りになる存在でいなくてはと思っていたはずが、気づいたら今や妹の方が物知りで、膝枕し合うようにまでなって(そんな気持ち悪いものではなく、そこに膝があったら頭を無言で乗せる、程度)、私の良き理解者になってくれた。
疲れたときは、ふわふわした甘いものを食べたい、と人に頼んで付き合ってもらえるようにもなった。
パンを手作りする時にこねる作業がものすごくストレス発散になることにも気づいたし、働いてお金を稼げるようになったことで、自分へのご褒美にと、美味しい食べ物も、ちょっといいバッグも、趣味の食器集めもできるようになった。
そして意識的に子供に戻れることも知った。
例えば子供の頃していたように、ぎゅうして欲しいと無邪気に言ったり、甘やかして欲しいと伝えたり、大きな声で笑ったり、涙が枯れるまで泣いたり、可愛いものをみて叫んだり……(笑)。
大人っぽくないから、とツンケンしていつも一歩引いていた頃より今の方が、性格や好みは随分子供の頃に戻ったけれど、自分にとって、何がストレスでどうしたらストレスが発散できるのかが少しずつわかるようになった。
そうして、人に辛いと言って、頼れるようになって、自分自身の機嫌の取り方がわかるようになって初めて、大人になったな、と自分で思った。