好きなものを仕事に」できるのはほんのひと握り

社会に出てからの6年、様々な仕事との折り合いの付け方を見てきた。
「仕事だと思っていません。もう趣味ですから」と至上の言葉を口にする者や、「毎週月曜日から金曜日までは指折り数えています」「朝の通勤電車に乗るまでがその日の最も大きな仕事です」と暗い瞳でぽつりと答える者。
物語は多様ではあるが、ほとんどの人の間で同意しているのは、小学校や中学校の時に書いた文集「将来の夢」通りの道を歩いている人はほんのひと握りということ。かくいう私もその一人だ。

私の小学生の夢はトリマーになること。
中学校での卒業文集ランキングでは「早くお母さんになりそうな人第一位」で、高校生の夢は「杉本彩になりたい」。

今のところ全て現実となっていない。今私は都内で教員をしている。一般企業で働いていくうちに、教育こそが人間の最大の人的資本であると小難しく思ったからだった。
しかし、思春期真っ只中の子どもたちと過ごしていくうちに学んだのは、私にはこの子たちに語る言葉が何もないという事実。

夢を持て!と生徒に語るセンセイの隣で、私は語る言葉を持たない

道徳の授業なんて悲惨そのもの。働くってなんだろう。このテーマは一般企業上がりの人間にこそ苦しい。
小さい頃から教師に憧れて、そのまま教壇に立っているセンセイ方とは相容れないものがある。だって彼らは「好きなものを仕事に」できたほんのひと握りの人たち。14時間以上職場にいようと、夜はお菓子を食べながら談笑してスッキリした顔をしている。
そんな彼らを横目で見ながら、自分で選んだ道であるのに消化しきれないモヤモヤを抱えていた。

そもそも、「好きなものを仕事にする」と「好きなもののために仕事をする」は、比較的ゆとりのある生活が約束されている人の生涯の命題である気がした。
生活のためには……と他の選択肢が浮んでこない程の境遇にいない人にとって、全員抱えてもおかしくない悩みである。選択肢があるからこそ苦しいとも言える。

学校では、夢を持てよ!先生もお前らくらいの頃は……なんてそれがあたかも唯一の選択肢であるように提示している。しかし、そんなセンセイの隣の席の先生である私は語る言葉を持っていない。
私もまだ彷徨っているし、一向に答えが見えない気がする。参考書に載っていない問題こそ、人を苦しめるものなんだとしみじみ思っている。

選択肢は無限なようで、そうではないと気がついた

しかし、ある転機がこの冬に訪れた。急に思い立って秋田の乳頭温泉に一泊することになり、雪深い土地で歩いていた時のことである。
慣れない雪の上をペンギンのようにペタペタ歩いていると、見かねた宿の女将さんが心配してくれた。そこで思った。
そうか、私はどこでも生きていくことができない人間なんだと。

選択肢は無限なようで、能力が追いつかない仕事や環境は確かに存在している。そう考えると、二択に思えた「好きなものを仕事にする」と「好きなもののために仕事をする」は間違い。基本的には後者しかないのだ。

熱く語る隣の席のセンセイは、「様々な子どもと触れ合える時間を確保するために」仕事をしている訳で、「教師」を好きな訳ではないと解釈できる。「好きなものを」仕事にするべきと迫ってしまうと、まずは好きなものを探さなければならなくなる。
それが多くの子どもにとってはしんどいことであり、その正当性を語れない私のような教師も存在する。

だから今切に思うことは、好きとか嫌いとかではなくて、自分が生きやすい場所や環境を選んでそこで働けばいいということ。
好きなものが概念でも推しでもなんでもあれば、それを第一に置くべき。なければ無理に探すのではなく、感情に縛られることのない生活を満喫すれば良い。

かく言う私は暫く仕事から離れることを決意した。代わりにこの春から大学院で勉強をする。
そんな選択肢だってありなんだよって、最後に子どもたちに話したい。