成人し、就職し、結婚のことを考え始めても、大人の自覚はできなかった
自分はもう『大人』になってしまったと思う。
将来のために貯金をしないと思ったり、会社で働いてみたり。友人たちが結婚や出産をしているのを聞いたり、実際に自分も漠然と結婚したいなあと思ったり。
手を出したい趣味にはどんどん手を出せれるけれど、生活のことを考えて制限をしたりもする。
私は『大人』というライフステージに立っている。そして明確に『子ども』ではないと思う。
いつから大人になったんだろう。
お年玉をもらわなくなった年。成人式に出席した日。大学の学位の証書を渡された瞬間。正社員として初めてオフィスに入った日。結婚のことを考え始めたころ。
どれも『大人』になったきっかけとしては正解な気がするけれど、決定的な出来事ではない。時間が経てばやってくるような出来事たちをこなしたからといって、『大人』という自覚はできなかった。
私が『大人』になった瞬間は、自分の生き方を決めた瞬間だと思う。
小説家になってご飯を食べられるようになろう!そのために小説をコツコツ書いて、コツコツ公募に応募して、落ちて、また書く。そういう生活をするためには安定した収入が必要だから、正社員として働くことも決めた。
何年かかっても小説家になる。死ぬ時にもデビューできていなくても、私はその最期の瞬間まで小説を書いていく。
多くの人が送る「幸せな生活」も、私には物足りなかった
たしかに、一人の社会的人間として生きるなら、正社員で昼間働くだけで十分やっていけるのだ。
夜はゆっくりご飯を作って、しっかりお風呂に入って、ドラマやYouTubeを見て寝る。休日には遅寝をして、どこに食べにいこうかなーって考えて、気ままに過ごす。
そういう生活は想像できる。多くの人がそういう生活を送っているだろうということも。
だけど、私にはその生き方が物足りない。
人が提供してくれる娯楽を享受するだけでは飽き足りなくて、自分で創造するほうに熱中している。インプットをしたら、その三倍はアウトプットしたくなる。
筆が進まないときはしんどいけれど、書き上げたときの脳がくらくらするような幸福感はめったなことじゃ得られない。
もちろん違法薬物に手を出したことはないけれど、「脱稿」ハーブとでも形容するしかない強烈な快感。ふわふわとしているけれど、その幸福感も一瞬で醒めてしまうから、また次の脱稿ハーブのために筆を執る。
小説家になって、小説で食べることができるということは、人から小説を書いててもいいんだよと認められることだと感じている。
自分の生き方を選んだ人が大人。だから私はあの日の自分を誇りに思う
『大人』とは、自分の生き方を選んだ人だ。
それは、すべからく夢を追い求めることが『大人』というわけではない。
夢を実現したと思えた瞬間や、夢を諦めて堅実な生活を選んだ瞬間、実家から離れると決めた瞬間や、この人と家族になると決めた瞬間。そういう『生き方』を決めた人が大人といえるんじゃないだろうか。
決めることには責任が伴うし、そのタイミングは人によって遅いも早いもあるだろう。
私は小説家になると決めたから、時に友人から休めと言われるような生活をしている(私にとっては無理もしていないペースなので、休むという選択肢はないのだが)。
確かに犠牲にしているものや時間はあるにせよ、それは私が決めたことだ。幸も不幸もある生活、楽しいだけが人生じゃない。
生かされてきた『子ども』に別れを告げて、生きることを決めたから『大人』になった。小説家を志したあの日の自分に、誇らしく思う。