子供のころ、外で駆け回ることばかりして、室内で勉学に一度も向き合わない私に母は「勉強したら大学という楽しい場所にいけるよ」と話してくれたことがある。
当時小学1年生の私には、大学という場所は頭の良い人間だけがいける場所で、周りの同級生より1歩も2歩も常に遅れている自分にはいけない場所だから関係ないと考えていた。
私が多くの人に認めてもらえる人間になる方法は、苦手な勉学ではなく、得意なスポーツや芸術面を磨くことで魅力的な人間になることだ。人より劣っている自分は凡人でいてはだめなのだ。枠にとらわれない変人でいるべきだと考えていた。どんなことも笑って乗り越えられる、変わっているが魅力がある人間になる。そう考えていた。
憧れた変人ではなく、最も恐れた「平凡なサラリーマン」になった私
26歳になった現在、私は誰よりも平凡な日常を送っている。
毎朝同じ時間の電車に乗り、同じ内容の仕事をこなし、残業をして家路につく。
毎日の楽しみは24時頃に更新されるweb漫画を読むこと。
偉大なことを成し遂げたいと平凡を嫌っていた子供時代、自身が最も恐れていた大人の姿になっていたのだ。
あこがれた「優れた変人」とは真逆のただの平凡なサラリーマン。まだ何も成し遂げることができずに中途半端に生きている。
私はまだ、その事実に向き合えないでいる。
今の自身に対して、子供のころの私が「ここで終わる自分ではない」と常に囁いているような状態だ。ふと夜中に自分の感情が不安定で、訳もなく涙が湧き出てくることもある。
何か行動を起こさなければ、このままでは私は私を認められぬまま終わってしまう。
不安を抱きながら日々をおくっている。
大人になることは何かをあきらめることだ。
子供であることは信じることを疑わないことである。
なりたかった大人になれない現実も、悪いことばかりではなくて
子供の頃はもっとキラキラした目で、明るい未来を疑わずに信じていた。
何でもできると思っていたし、自分次第でどうにかなると根拠もなく信じていたのだ。
しかし、大人になるにつれて、自身では変えられない現実と向き合うたびに、1つずつあきらめていった。そんな自分がなさけなくて、自身の未来を信じられなくなった今、私は大人になんかまだなりたくなかったと子供じみたように思うのだ。
体は大きくなったが、反比例するように心は小さくなったように思う。
様々なことが怖くて仕方がないのだ。
たくさんいた友達は少しずつ結婚し、人生の階段を上っているのに対して、私は人間としての階段を1歩も上れずに座り込んでいる。
いったい何をしているのか。
なりたかった大人になれずに後悔したことは数えきれないほど多くあるが、悪いことばかりではなかった。
ほしいものを自分の力で手に入れることもできたし、責任を負うことは大変だが、やり遂げた時の満足感と認めてもらえたときの幸福感は、大人にならなければ得られないものだとも思うのだ。
子どものころの自分よ。再スタートは自分のさじ加減でいつでもできる
先日、仕事に対しての今後の考えを上司に聞かれ、今ある仕事で精一杯だった私は「今の仕事を頑張る」と答えたのだが、もう少し新しいことにも挑戦しようかと勧められた。
期待してもらえることはうれしいが、現状そんな余裕を持っていなかったため、内心不安と焦りが心の大半をしめていたが「yes」と答えた。
大人は「no」とは言えない生き物だ。
常に追い詰められ、こらえながら生きているように思う。
その中で、こらえ続けた人間が何かを成し遂げ成長していくのだろう。
子供のころの自分よ。
平凡な人間なんて誰一人として存在しないのだ。生きているだけでとてもすごいことのように思う。
そう思うと心が軽くなった。
人間の人生なんて、失うことが多い人生だ。それは大人になればわかること。だけれども、失うことばかりではないのだ。
私も失望だけするのではなく、少しの趣味を伸ばしながら大人への階段を自分のペースで、たくさんの人に助けられながら歩んでいこうと思う。
変わろうと思えばそこから始めればいい、やり直しなんて大げさなことは言わない。
再スタートなら自分のさじ加減でいくらでもできるのだ。
子供のころに憧れた自分に少しでも近づくために、また始めよう。
あの頃に持っていた信じ続ける力を思い出して、今の子供で大人な私と向かい合う。
ひさしぶりだね。あの頃の私。