「いつも思うんだけどさ、霜、ヤバいよね」
パタン、と冷凍庫の扉を閉め、作りたてのハイボールを口にしながら彼が呟いた。
「いい加減、霜取りしなよ。てか、設定温度が低すぎるんじゃない?ウチの冷凍庫はこんなに霜こびり付いたりしないんだけどな〜」
ひと口、ふた口と更にグラスに口を付けながら、彼は言葉を続ける。
視線は私をとらえることはなく、テーブルの上にあった携帯の画面へと移っていった。
月に一、二回行われる二人の「ハイボール会」。つまりは宅飲み。
お互いハイボールばかり飲むので、自然とそう呼ぶようになった。
このハイボール会が行われるようになってから、もうすぐ二年が経つ。付き合ってはいない。
彼の歴史に、私が入り込む隙間はないと思い知ったあの日
共通の趣味がきっかけで出会った私たちは、お互い結婚しているわけでもなく、十歳以上も年上の彼に、私が一方的な想いを募らせているという関係だった。
二人で会うようになったきっかけは、二年前のとあるイベントの帰り道。楽しい時間を趣味仲間と共に過ごし、帰路につこうとした時だった。
「もう遅いし、家まで送ろうか?」
その時の彼に下心があったのか、単純に純粋な心配だったのかは分からない。だが、以前から想いを寄せていた相手に「女の子扱い」してもらえていることに嬉しくなった私は、夜から朝に移り変わる曖昧な空の下、頬を赤らめて静かに頷いたのだった。
それから、私たちは定期的に二人で会うようになった。会うのは決まって彼の家か私の家。外に二人で飲みに出掛けることは一切なかった。
何故、外に飲みに出るのが嫌なのか聞いてみたことがある。
すると彼は、
「だって、俺たちが二人でいるところを他のやつに見られたら、お互いこれから動きづらくなるでしょ?」
と、気まずそうな顔をして彼が冷たい言葉を投げかけてきたのだ。
ズキン、と心が痛む音がした。私にしか聞こえない、温もりの無い言葉が心に刺さる音。
「お互い」なんて都合の良い言葉を使うところがズルいな、と思った。都合が悪くなるのは彼だけなのだ。結婚しているわけでもなく、彼女もいない彼だったが、歴代の彼女は美女揃い。そんな彼の歴史に、何の取り柄もない私が入り込む隙間などないのだと、痛いほどに感じた瞬間でもあった。
「その先」を望まなければ、こんなに苦しい思いはしなかったのかな
彼があのイベントの帰りに家まで送ってくれた時、「その先」を望んだ自分。
彼もきっと私の気持ちに気づいていた。
二人にとって初めての「ハイボール会」。作ったハイボールは減ることはなく、溶けた氷でどんどん薄くなっていった夜。幸せと絶望を同時に感じた夜。
あの時、それ以上を望んでいなければ、その後二年間も苦しい思いをしなくて済んだのだろうか?なんて、携帯の画面に集中する彼を横目に静かに思う。もう今更そんな事を考えても仕方がないのだろうけど。
そこからの二人の夜は長い。共に一晩を過ごし、翌日お開きとなる。
彼が帰った部屋に一人。私は思い立ったようにマイナスドライバーを手にし、冷凍庫を開けた。
内部にこびり付いた頑固な霜。
その霜のせいで、他の食品たちの居場所がなくなっていた。
何も考えず、マイナスドライバーで霜を削っていく。最初は全く崩れなかったが、だんだんとすり減り、大きな塊が一つ、二つ、と落ちていった。
霜を取りながら、私は彼のことを考える。
もうずっと前から知っていたのだ。彼が私と付き合う気が全くないということも、私といる時に他の女と連絡をとっていることも、私が連絡をして返信が遅かった時に他の女と一緒にいることも。
「寝てた」や「地元の男友達と飲んでた」なんていつも決まった台詞を使いまわしている彼を見ているうちに、彼が嘘をつく時の癖に気づいてしまったのだ。知りたくなかった癖だった。
この恋から逃れたい。でも、本当は知りたくなかった
霜はどんどんと落ちていき、気づけば冷凍庫の内部は綺麗な状態になっていた。
霜の塊をシンクへ入れ、お湯をかけて溶かしていく。
溶けていく、溶けていく。どんどん溶けて無くなっていく。
溶ける霜を見つめているうちに、自分が苦しい恋から逃れたいと思っているのだと改めて気づいた。
それと同時に、彼への想いが日に日に消えていくのも感じていた。
知りたくなかった。彼への想いの消失を。ずっと好きでいたかった。
付き合えないと分かっていても。
でも、それではダメだと気づいてしまった。
消えていく。無くなっていく。
彼への想い、共に過ごした時間、そして未来。
知りたくなかった。でも知らなければ消せなかった。
霜が全て溶けきる頃、サヨナラの四文字が、私の二年間にピリオドを打った。