歳を重ねるほどに、私から「普通」が遠ざかっているような気がする。
勉強を頑張っても、アルバイトを頑張っても、友達と遊んでも、結局どこか恋愛至上主義で、ポジティブ至上主義なこの世界。そのどちらの「普通」にも属していない私はどうやって生きていけば良いというのか。

行動しなくちゃ。だってそれが「普通」でみんなやってることなら

大学生なら、お洒落な格好をして、優しい友達に囲まれて騒いで、恋人がいて毎週とは言わずともデートして、それらを嬉しそうにSNSにアップロードして、その一方で勉強は程々に、アルバイトには精を出して、就活も何だかんだ自分に合っていて、尚且つ成長できるようなところに……。
考えるだけで気が遠くなる。

毎日必死で課題をこなして、アルバイトもシフト通りにきちんと出て、嫌なことがあってもその場ではにこにこと対処して家に帰ってひとしきり泣く。
仲のいい男の子なんて一人もいないし、いたとしてもバイト先の人間関係で、職場であるそこに恋愛なんて持ち込む訳にはいかない。

就活のことだってぐんぐんと速度を上げてこちらに迫ってくるような年齢だ。自己分析をして業界研究をして説明会に行って……とにかく行動しなくてはならない。だってそれが「普通」で、みんなやってることだから。私が乗り遅れるわけにはいかない。
毎日自分で頑張った、という実感があったとしてもそれを誰かに認めてもらって褒められるわけでもなく、自分の不安やストレスは自分の中で解消しなくては「大人」であると見なしてもらえることもない。

本やSNSで毎日見かけるアドバイスも効果がない私は普通じゃない?

恋愛だなんて、とキャーキャー騒いでいたあの頃とは一変して、今では恋人がいるのが「普通」だし、インスタのストーリーで毎日惚気け倒すのが「普通」らしい。「昔付き合ってた人がいて」という言葉はなんて事ない、むしろ憧れのような存在だったのに今では恐怖の対象でしかない。

本やSNSには毎日のように「ポジティブに生きるために○○しよう!」といったアドバイスの文字が踊っている。勿論それができるに越したことはないし、そうしたらきっと生きやすいのだろう。しかしどれほど気を付けていたとしても、ポジティブで毎日ストレスフリーに生きることなんて、とてもじゃないけどできない私は、「普通」からこぼれ落ちてしまった欠陥品なのだろうか。

半年前、米粒のように更新してくる知り合いのストーリーを何としても目に入れたくなくて、ミュート機能を求めてアプリの中を彷徨ったものの見つからなかった。自分のストーリーを非表示にする機能は見付かったので、私はなんの躊躇いもなくそれを押した。
でもその知り合いを苦手に思っているということを悟られたくなくて、その知り合いのストーリーは全部見ているし投稿だっていいねしている。
1ヶ月前だって、きっと自覚などないまま私のSNSの投稿に対してマウントを取ってくる知り合いの投稿も、もう見たくないと思ってミュートした。でもミュートしているなんてバレたくなくて、たまに見に行っている。

知り合いに気を遣って、必死に人間関係を繋ぎ止めようとしているなんて馬鹿らしいが、それが全てなのだから仕方ない。「普通」は今ある人間関係を大事にして、仲良く過ごすものだから。

普通という理想に向かい、頑張っている私は満足できる自分がほしい

「普通」という名の単なる理想に向かって足掻き続けて、うまくいかなくて、結局こうして長々と文句を垂れている時点でもうそれはそれは盛大に笑われてしまうようなものだが、それでも私は満足できる自分が欲しいのだ。
毎日頑張っているご褒美に何かくれたっていいじゃないか、神様。そう願わずにはいられない。私もあの子みたいになれたら、私も「普通」の学生になれたら、そんな怨念じみた願いで私の体は構成されている。