子供の頃は毎日、当たり前のように「学校」に行く。朝起きて、着替えをして、朝ごはんを食べて、歯を磨いて、ランドセルをしょって、靴を履いて、玄関扉を開ける。毎日、月曜日から金曜日まで。
そんな生活を何年も続けながら、いつしか働かなければならない歳になっていて、いつの頃からか、玄関扉を開けて向かう先は「職場」になる。

間違えても良い「学校」と、間違えられず成果を求められる「職場」

「学校」はいいところだ。間違えても良いし、成果を求められることもない。台風や大雨、大雪の日にはお休みになる。働いたときのために学習指導要領に則った学問を勉強して、その合間に人間関係という魔物の中で生き抜く経験を積む。すべては働いたときのために、ということなのかどうかは置いておいて。

「職場」は違う。間違いは起こしてはいけないし、成果を求められる。どんな異常気象が起きても、どれほど時間をかけても行かなければいけないし(たとえそのためにいつもより一時間以上早起きをしたとしても、ガソリン代や電車賃をかけたとしても)、人間関係を生き抜かなければならない(セクハラは訴えられるものだとは言うけれど、あまりにも多すぎて訴えることもめんどくさくて愛想笑いで自分が感じた不快感をごまかしているとしても)。それが仕事というものなのだと自嘲的に感じながら。

何事も良い面と悪い面があるように、この仕事をして良かったと思う日もあれば、嫌で嫌でたまらなかったという日もある。その仕事をしていたからこそ、感謝されることもあるかもしれない。仕事をしていなければ出会えなかった人もたくさん居ると思う。
ここで働くことができて良かったと思ったことも私自身、何度もあった。きっとやりがいを感じることができれば、自分がその仕事に関わることで自分の存在意義を実感することができれば、仕事は私の心を満たしてくれる。それは中毒のようになることもあって、加減は必要だと思うけれど。

感じ方次第とわかっていても、自分を甘やかそうとも思えない日もある

感じ方次第なのかもしれない。嫌なことがあっても、明日はきっと良いことがあると思えれば良いのかもしれない。希望を持って働いていければ良いのかもしれない。
「職場」に気の置けない同僚を作ったり、お気に入りの業務を作ったりすれば良いのかもしれない。仕事終わりに生チョコみたいなガトーショコラを食べて、ベルガモットのアロマオイルを垂らした湯船に深く浸かってから眠れば、きっと明日は気分を切り替えて働けるのかもしれない。

そんな風にして私は仕事で嫌なことがあった日は、それを乗り切った自分を褒めるためにどこまでも自分を甘やかしていた。そうやって、自分をねぎらってきた。
一方で、私はホルモンバランスの影響をもろに受けやすいようで、仕事で嫌なことがあった日に明日は良いことがあるなんて思えない日もある。自分を甘やかそうとも思えない日もある。ポジティブに考えられないことに自己嫌悪することもある。

そういうときはこの波が過ぎることを願いながら、穏便に過ごす。いつもより少し無口になっている。通常は不快にも感じない誰かのたわいのない言葉に傷つくことがないようになるべく人にも会わず、ジャスミンの香りの湯船に浸かってただ眠る。今はそういう時期なんだとわかっていても、その時期の自分は未だに好きになれない。いつか、もっと歳を取ったらそんな自分を受け入れることができるのだろうか?どうしたら受け入れられるのだろう?

仕事は良いことばかりではないから、やり切った時は思う存分褒めたい

学生時代、人生初めてのバイトでもらった初任給を使って買ったものは某アイスクリームメーカーのクッキー&クリーム味のパイントサイズだった。
長年の夢だったからやってみたけれど、結局一人で食べきれなくて半分食べて残したことを覚えている。

その当時も感じていたけれど、仕事をしていると本当にいろんなことがある。毎日平穏で穏やかに過ごしたいと思っていても、誰かと関わっていると決してそんなことはできず(悟りを開いている人ならできるのかもしれない)、おもしろいほどに何かが起きる。それが良いこともあれば、反対のこともあって、嬉しくなったり、怒りがこみ上げてきたりする。

仕事は決して良いことばかりではない。だから、私は仕事をやりきったときは自分を思う存分褒められるようになった。仕事をしたからこそ、できるようになったことだ。
きっとこれからもいろいろ起きてしまう。一筋縄ではいかないこともたくさん。それを乗り切ったら、自分よくやった、偉いと心から褒め称えたい。思う存分自分を甘やかしたい。今度はミニサイズのクリスプチップチョコレート味のアイスでも買って。